アサは自分の荒い呼吸だけに耳を傾けて走り続ける。
一面に広がるのは草原。頭上には空の青。
草はアサの膝丈まで生え茂っており、駆けるアサは草で小さな切り傷をたくさん作っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
それでもアサは、力いっぱい腕を振って走り続ける。
アサは一直線に走っているが、しかし、目指す先、目的地はなかった。
あるのは一つ。
帰る場所が、なくなったということ。
また一つ爆音が近づいてくる。
迷彩色のヘリコプター。
アサは咄嗟にしゃがんで草にまぎれる。
ヘリコプターが太陽を遮り、アサを暗くする。
地に額を押しつけながら、アサは心の中で、何度も何度も一人の少年の名を叫んだ。
身を隠すアサの頭上をヘリコプターが通り過ぎていく。だんだん、ヘリコプターの音が遠ざかる。
アサは立ち上がる。そして、また走り出す。
どれだけ走っただろうか。アサはミサイルかなにかによって穿たれてできた、壁面の洞穴を見つけた。
アサは今にも倒れそうな足取りで洞穴へと身を近づける。周りに人の気配はない。
洞穴の中はしっとりと涼しく、アサの足は陰に入ったところで止まる。
入り口から外を眺めると、さっきまで走っていた草原と真っ青な空が、ちょうど同じくらいの割合で視界を埋める。
アサは外を眺めたまま腰を下ろし、熱に浮かされたように一言呟いた。
「いいや……ここに、しよう……」
一人の少年が、血まみれの体をひきずって懸命に走っている。
少年は、草原にかすかに残る人の通った跡を頼りに走る。
それは、足跡だったり、草が踏み分けられた跡だったり、
血の跡だったり―
少年は歯を食いしばって走る。傷で熱を持つ体に鞭打って、走り続ける。
「はぁ……はぁ……かはっ……」
不規則な呼吸に足を止めることなく、ただひたすらに跡をたどる。
心の中で、何度も何度も彼女の名を呼ぶ。
「アサ……アサ……!」
彼にとって大切な人の名が、心から溢れだして口から零れ落ちる。
頭から流れる血が目元をつたう。
まるでそれは血の涙のように見える。
強い日差しが、少年の身をジリジリと焼く。
いつ力尽きるとも知れない身をいたわることなど一切せず、少年はただひたすらにアサのもとを目指す。
遂に膝をつきそうなほど疲弊した少年の目に、壁面の影が映った。
太陽の光に満ちあふれた世界から切り離されたような、温度も、色も異なる空間。
少年は疲れを忘れて吸い寄せられるように足を前に運ぶ。
「アサ……」
少年は見た。影に溶け込むように身を折る、アサの姿を。
少年は一歩足を進める。アサの横顔が見える。乱れた髪の間から見えるアサの頬は異様に白い。
「アサ……!」
少年の大きな声はしかし、静かで涼しい影にとけて、すぐに消える。
アサを抱き寄せる少年。アサの体に力はなく、少年の腕からアサの痩せ細った腕が滑り落ちる。
「アサぁ……」
少年の再三の呼びかけにも、冷たくなったアサは答えない。
アサをぎゅっと抱きしめた少年は、アサがうずくまっていた場所にある人の頭ほどの大きさの石に気づく。
少年はアサをそっと地面に横にしてその石に近づく。
少年は石を正面で見た瞬間、息をのんだ。そしてすぐに、目元に熱いものがこみ上げてきた。
そこには二つの名が書かれていた。
まだ濡れている紅い血で、こう書かれていた。
『アサと、ヨウ』
少年の頬を伝っていた血は、涙によって流される。少年の激しい感情は、怒濤の如く押し寄せては頬を流れる。
少年、ヨウはしかし、なぜ自分が泣くのかなどわからない。
ただただ、涙が溢れては頬を伝って石を濡らした。
ヨウは不意にアサを抱き、影の外、太陽の下に躍り出た。
ヨウはアサの両手をとって、ぐるんぐるんと振り回した。
端から見たら、なにをやっているのか誰もわからないかも知れない。
ヨウは、アサと踊っているのだ。例え誰一人それを踊りと認めなくても、ヨウはアサと、青空の下を舞い踊る。
「オオオオォオオオ!!」
ヨウは不器用な踊りを必死で続けながら吠えた。足の傷が痛む。脱臼している肩が悲鳴を上げる。
ヨウは吠えて、そんな痛みから気を逸らす。
アサにはもうこんな痛みも感じられないのだと思うと、ヨウの踊りはいっそう激しくなった。
ヨウの叫び声を引き裂くように轟音が近づいてくる。
しかしヨウは踊りをやめない。青空の下で、踊り続ける。
ヘリコプターはあっという間に近づいてくる。
しかしヨウの耳に、もう音は聞こえない。ヨウの目に、もう何も映らない。
―もちろん、アサの目にも、耳にも、何も―
と、ギリギリまで接近したヘリコプターから、また別の音が発せられる。
ヘリの通過音に比べると、あまりにも間の抜けた音。ヨウの叫びと比べると、あまりにも軽い音。
音と共にヨウの舞いが変化する。痙攣したかのように、その場で天を仰いで震える。
息を引き取ったアサさえも、そんな悲惨な死のダンスを、ヨウと一緒に踊っていた。
ヘリはすぐに引き上げていく。もう、轟音も、射撃音も、何もない。
風の音だけが、二人の世界を包む。
草で隠れるように、二人は倒れていた。
共に手と手を取り合って、青空の下、二人は旅立っていった。