「あ〜もう!」

女子高生の向坂(サキサカ)さんは、焦りながら靴にかかとを突っ込みます。

玄関の時計はちょうど7時30分を指しています。急がないと電車に間に合いません。

向坂さんは行ってきますも言わずに飛び出します。手に持つカバンをブンブン揺らしながら走ります。

今日は遅刻指導週間2週目の金曜日。2週の間に3日以上遅刻したらいけない期間の最終日です。

もし3日以上遅刻してしまったら、それはそれは重い罰則が生徒達を待ちかまえているのです。

猛スピードで突っ走る向坂さんはすでに2回遅刻してしまっています。もう遅刻は許されません。

それなのに今朝、向坂さんは寝坊してしまいました。



普段寝坊なんかあまりしない向坂さんですが、昨夜は事情が違いました。

どう事情が違ったのかは野暮なので言いませんが。

ともあれギリギリの時刻に目覚めた向坂さん。

朝食抜きで飛び出そうとしましたが、思いとどまって歯磨きと身だしなみを調えるのには時間を使うことにしました。

向坂さんの計算では、それだけの時間はギリギリあるはずだったのです。

しかしここで向坂さんの計算にイレギュラーな要因が加わってしまいました。

姉です。向坂さんのお姉さんが洗面台を占拠していたのです。

「姉貴、どけぃ!」

などと汚い声を上げつつ顔を洗うお姉さんのお尻を蹴ります。

しかしお姉さんも慣れたもので、自分の作業が終わるまで動きそうにありません。

そんなこんなで向坂さんは貴重な数十秒を消費してしまったのです。



遅れた分を取り戻そうと、向坂さんは裏道に足を向けます。猫が通るような細い道です。

向坂さんは壁に背を擦りながらカニ歩きで進みます。

あと少しで大通りに出られる、と思ったところで、前から向坂さんと同じようにカニ歩きな男が現れました。

「…………」

向坂さんの形相を一目見ると男はもと来た方向に戻ります。向坂さんは男の遅いカニ歩きにイライラします。

男が抜けてすぐに、向坂さんも抜けてダッシュ再開です。もう駅が目に入っています。時計を見る時間もありません。

向坂さんはポケットから定期入れを取り出して、改札に定期券を通します。電車到着の音が聞こえてきます。

階段を一段とばしで駆け上がる向坂さん。お客さんが乗り込んでいく電車。

今にも閉まろうとするドア。階段を上りきってラストスパートをかける向坂さん。

向坂さんが閉まり始めたドアに手を伸ばします。ほんの僅かな距離。

ドアは向坂さんの指の前でピシャリと閉まり、焦らすようにゆっくり発車します。

向坂さんの肩が震えています。空っぽになったホームで、向坂さんはきびすを返して椅子に座ります。

「はぁ〜〜〜あ……」

とても長い向坂さんの溜め息を聞く人は、そこには一人もいませんでした。






「お疲れ様でしたっ!」

すっかり日の暮れた学校から飛び出した人影が一つありました。向坂さんです。

部活の先輩や友達があっけにとられている中、鉄砲玉のように飛び出した向坂さん。

今度は、音楽番組の予約録画を忘れていたようです。なんでも、大好きなバンドが久々に地上波に登場するとか。

電車一本遅れると最初の10分は見逃してしまいます。その間に大好きなバンドが登場したらとひた走る向坂さん。

電車に乗れるかどうかは微妙な時間。向坂さんは必死です。

そんな向坂さんの前に大きな困難が立ちふさがります。赤信号です。

向坂さんは足踏みをしながら待ちます。やたら1秒が長く感じることでしょう。

車の流れがまばらだったら間違いなく向坂さんは信号無視をしたことでしょう。

青信号になります。走り出します。

駅が見えてきました。しかし前方には自転車の大群。向坂さんと同じ学校の男子達です。

男子達の自転車をこぐペースは向坂さんの走りより遙かに遅いです。向坂さんの怒りが頂点に達します。

「ちりんちりん! ちりんちりんッ!!」

男子達はビックリして振り向きます。そしてすぐに気味悪がって道をあけました。

向坂さんが快速を飛ばします。もう前方に遮蔽物はありません。あとは駅に突っ込むだけです。

向坂さんは定期入れを取り出そうとポケットをあさります。向坂さんの顔が青ざめます。定期入れがありません。

逆のポケットにも手を突っ込みますが、やはりありません。改札を目の前にして、足が止まってしまう向坂さん。

電車の到着する音が聞こえます。向坂さんは焦りつつもカバンの中を調べます。

ありました、向坂さんはクラブ前に定期入れをカバンに入れ替えていたことを思い出します。

定期券を通して改札を抜けます。階段を駆け降ります。電車が目に入ります。

発車を告げる音。乗車したい向坂さん。

しかし扉は無情にも閉まります。肩を落とす向坂さん。

「むぅぅぅ〜〜〜ん……」

苦渋の表情の向坂さんを、サラリーマンの人たちが何事かと覗き見ては通り過ぎていきました。






ただいまも言わずに居間に飛び込んだ向坂さんを待っていたのはお姉さん。

テレビには、お辞儀をする向坂さんの大好きなバンドのメンバー達が映っています。演奏が終わったようです。

「あああああ……」

向坂さんの声ならぬ声が漏れます。お姉さんはそんな妹にあきれつつポッキーを口に、リモコンを振ります。

「録っといたよ」

向坂さんの表情が止まります。固まった表情はみるみる笑みに変わります。

「マジ!? おねーちゃん最高! 大明神!」

小躍りしながら台所に行ってお茶を飲みます。

CMが終わって番組が始まって、続きを最後まで見て―

向坂さんがビデオを巻き戻して再生したら、そこに映ったのは裏番組で、にやりと笑うお姉さんの顔がありました。



がんばれ向坂さん。たまにはこんな日もあるさ。