第一話『別世界』
母親の見舞いも終わり、人ごみに揉まれながら見上げた空には、薄朱色のフィルターがかかり始めていた。 こういった場所は好きではなかったが、慣れない場所の為にこの道以外、駅から病院までの経路を知らず、下手に横道に入って迷子になるのは避けたいところで、そもそも散策する気もなかった為に、結局この経路を利用することとなった。 直前の信号の色が変わり、人の流れも滞り始めた時、すぐ側の電気屋で騒ぐ宣伝用のTVが目に入った。 ディスプレイには一人の女性が、デスク越しに本日の事件を伝えていた。 最近はどこのTV局も、多発している誘拐事件を、連日のように取り上げており、キャスターの悲痛な顔も、今や午後10時のお馴染みとなってしまった。 新聞も同様で、初めは地方版の三面から、遂には一面記事として取り上げられるようになり、組織的な陰謀に関する噂も立ち始める始末。 「現在も内紛が続いている某国に比べると、平和であること極まりない」というのが彼、東雲 信二の口癖だった。 「・・・おっと」 流れが動き始めた。 人の流れとは面白いもので、滞っている時は身動き一つ取ることを許さない癖に、一度動き始めれば、予想以上にスムーズに進むことが出来るのだ。 初めの頃は押し流されていただけだった信二も、今や習慣となった病院への往復によって、 自然と人の流れに乗る術を体得していた。 そうして1分弱、地下鉄への階段が見えた。 流れの中、歩道を少しずつ階段側に身体をスライドさせる。 だが、今日は流れが少し違った。 流れに違和感がある。 ふと先を見ると、波に逆流する人影が目に入った。 予想外の波に驚いている間もなく、逆走する影は、みるみるその輪郭をはっきりとさせてくる。 道を開けようと半ば強引に、身体をすぐ隣の空間に捻じ込んだ。 背後で小さな舌打ちに、淡い罪悪感を覚えながらも、視線は逆走する影一筋である。 (・・・女の子?) 前屈みで波を裂く影は、その体勢から背丈に関する正確なところはわからなかった。 ただ、信二はそれが女の子だと確信していた。 小さな声が聞こえた気がした。 微かで、陽炎のように儚い感触が、信二の聴覚から記憶を支配し、繰り返し再生させている。 黒の流れに浮き立つ茶色、白。 流れの中で、今まで目に付いたもの全てが、今は収束する視界の中で大雑把な『流れ』として集約されている。 信二の眼に映るのは、その大きな流れに逆らう女の子、彼の世界から、彼の耳に残る声を除く全ての音が消えた。 徐々に距離が埋まる。 後三歩、二歩・・・・・・すれ違う。 「あっ・・・」 小さな声。 大きな驚きを含んだ、刹那の響き。 その時初めて、信二は先に、そして今再び植えつけられた声の主、その素顔を知った。 (目が・・・合った?) 信二の脇を抜け、流されるまま女の子は信二の視界から消えた。 振り向く事もできず、遂には波に飲まれた。 (ちょっとぐらいなら、遅くなっても・・・・・・いいよな?) 自問自答。 予め用意された自分の答えの再確認。 少しずつ、逆向きに流れる人の波に向かった。 だが、信二がその流れに合流することはなかった。 日常には、おおよそ存在し得ない違和感。 背中に、明らかに自分に当てられた硬質な物体と冷酷な感情。 「東雲信二、次の角を曲がれ」 薄ら気味悪い重低音。 背中に密着する悪寒に抵抗する術もなく、信二は波を裂き、目に入った路地に転がり込んだ。 人が二人、並んで歩くことも許されないほどに細い路地。 前に進むことのみ許された無言の圧力。 信二は呼吸も忘れ、ただただ背中の感触が示す方向に向かった。 首を動かすといった蛮勇も奮えず、目線だけで周りを見回しながら、ただ示されるままに進む。 何処をどう曲がっただろう、既に数十分歩き続けているはずなのだが、大通りどころか、人の影すら映らない。 この環境を、僅かながらも受け入れることができたのだろうか、信二の心に余裕が生まれていた。 同時に、それが命の保安には繋がらないことも理解していた。 さらに数分歩いたところで、信二は足を止めた。 いや、正確には後ろに立つ悪寒の根源が、信二の後頭部を鷲掴みにしたのだ。 驚くあまり身体が硬直し、半ば強制的に足を止められたのだった。 といっても、ここは袋小路。 進もうにも進めなかった、というのが心の言い訳である。 「そこだ、入れ」 といっても、ここは袋小路。 意地の悪い難問を出され困惑する信二の目に、木製のドアのような木の板が一つ、右側の壁に添え付けられているのが映った。 少なくともドアノブがなければ、それがドアだとは気付けないほどに朽ちていた。 恐る恐るドアノブに手を伸ばすと、それはギギッと音を立てて、意志を持っているかのようなタイミングで勝手に開き始めた。 予想外に手に触れた金属感に身体を撥ねさせながらも、その先に待つ闇に足を踏み入れた。 中からの明かりはなく、唯一外界からの明かりを取り入れていたドアも、内部を確認する隙もなく閉ざされたことで、そこは完全な暗闇へと化した。 小さな機械音が、闇に響く。 直後、地震が起きたように足下が揺れた。 状況も状況、限界まで過敏になった信二の神経に、揺れる地面は必要以上の反応を与えた。 不可視の闇、そして未だ側にいる悪寒が、気持ちの悪い圧迫感に変わり、内臓が浮き上がるような嘔吐感が信二を襲った。 再び揺れる大地。 同時に道が開かれ、外界からの光が差し込んだ。 不意打ちに閉ざされた眼をゆっくりと開くと、忘れかけていた背後の悪寒が、進み出ることを要請した。 表へ出たところで、信二は再び足を止めた。 前方に続く朱い荒地、両側面には断崖が、今にも覆い被さらんと聳えている。 さっきまで馴染んでいたはずのアスファルトや立ち並んでいたはずの家々は、今この場所には存在しない。 『別世界』・・・信二が今まで生きてきた16年の中で、そう表現するに最も相応しい光景だった。 |