『男には、一歩外に出ると7人の敵がいる』
と言っても、俺は用もないのに外に出たりはしない。
そりゃそうだ。
わざわざ飛んで火にいる夏の虫になってやるつもりなんて、さらさらない。
特にこんな、普段は聞かないようなセミの鳴き声や、陽炎で景色が揺らぐような日なんて、もはや『外』という存在自体がもう敵の張ったトラップに違いないと思う。
だが、そんな日に限って、避けられない用事が出来たりするのだ。
敵も必死だな。
自ら来ないなら、強制的に引きずり込もうってハラか?
いいだろう、虎穴に入らずんば虎児を得ず。
着の身着のまま、第一次屋外会戦に赴こうではないか!

       ◆

・・・・・・スマン、ちょっと言ってみただけだ。
だからそんな大地の怒りすらをも焼き払うようなマネはやめてくれ・・・・・・
因みに今、俺の頭周辺は局地的なヒートアイランド。
などと考えていると突如、後方から肩に衝撃。
きやがった!!
そんな判断も空しく、強烈な暑さの中、衝撃に脳がシェイクされる。
フラフラと前のめりに倒れそうになるが、そこは俺、『敵』に対する怒りという名の本能が、俺の足を自然と前に出させた。
バランスを取り戻したことを確認すると、素早く顔を上げ、『敵』を鋭く睨み付けた。
そして・・・
「チッ」
「あ、すいません・・・」
まずは軽く1勝。
無駄にでかいリュックを背負った『敵』、制服や背丈から見ると高校生だろうか。
舌打ち一つ、そのまま睨み続けていると、『敵』はそそくさと走り去った。
相手が誰であろうと知ったことではない、性別や年齢に関わらず、俺が『敵』と認めた瞬間、そいつは紛うことなく『敵』なのだ。

       ◆

初陣を勝利で飾った俺は、スキップ気分で目的地へと向かう。
もちろん“気分”であって、実際にスキップはしない。
この歳になってスキップはちょっとな・・・・・・
そんな気分で歩いている時は、必ずと言っていいほどに、悪戯好きの女神が俺に微笑みやがる。
俺がそれに気付くまいが、お構いナシだ。
ほ〜ら、どうやら俺が『敵』と認識する間もなく、向こうさんは敵意むき出しだゼ!
低い唸り声、聞く耳持たないと言いたげな双眸が、俺を捉えて離さない。
ならば、相手にとって不足なし!
ゆっくりと間合いを詰めていく。
だが、この戦場は相手にとって有利すぎた。
時刻は1400時。
俺の精神力は、集中による極限状態と地熱による脳内温度の上昇に堪えられなくなってきている。
それに引き換え、見てみろ。
『敵』は汗一つ見せず、平然とこちらを睨んでいるじゃないか。
一歩ずつ、じっくりと距離を詰める。
汗が尾を引くように、足跡の代わりにアスファルトに跡をつけ、そして蒸発。
じりじりと距離を詰める両者。
後・・・3歩・・・2歩・・・っ、咆哮!!
「うわっ!?」
攻撃範囲まで距離を詰め、一気に勝利を収めるはずの俺の作戦が、後1歩のところで急転回。
完全な不意打ち。
こうなったらもう止まらない。
『敵』は、ただひたすら俺を睨みつけながら、咆哮を繰り返す。
先手を取られ、全く腰の引けていた俺にはどうする事も出来ず、『敵』は首輪に繋がれた紐に引きずられ、その場を去った。
完敗だった。
ここで一気に2敗。
『敵』そのものにも負け、その飼い主にすら何も言えなかった。
畜生、犬畜生・・・・・・
アスファルトに焼かれる手の平と尻を気にも留めず、俺は敗北に飲まれていくのだった。

       ◆

チリチリと尻が痛い。
同じく焼けた手の平で尻を叩きながら、コソコソとズボンに穴が開いていないかを確認。
よかった、とりあえず無事らしい。
しかしこれで1勝2敗。
勝ち越すためには、意地でも後3勝しなければならない。
もう、敗北は意識してはいけない、落ち着け。
大丈夫だ、もう目的地の目の前、いわゆる折り返し地点だ。
それにこの中は冷房ガンガン・・・ウヒョー、たまんねぇなチキショー!!
つい叫びたくなる心を抑え、軽く深呼吸すると、自動ドアの前に立った・・・・・・が。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・さっさと開けよ!
冷静になれたのも束の間、なかなか開かない自動ドアに意識が朦朧とする。
チラッと視線を下げ、「自動ドア」というプレートを確認すると、そこで脳がふやけた。

       ◆

あー、涼し〜〜。
緑色のカゴに、焼きプリン3個とガムを放り込む。
俺が今、どうして正常に店内を歩き回っているかと言うと、正直俺にもよくわからない。
客はちらほらと見えるが、誰も俺に奇異の眼を向けてはいない。
ということは、俺はきっと、店長が仕掛けた自動ドアの罠を無意識かで回避したに違いない。
さすが俺だな。
とりあえず1勝・・・っと。
さて、後は目的の白あんぱんと牛乳だけだな。
浮かれるまま、パンの棚に急ぐ。
レジに並ぶ客の間を抜け、突き当りを左へ、そして大量にあるパンの前に仁王立ち。
白あん・・・白あん・・・白あん・・・・・・
ふと、棚の下段に『あんぱん』と書かれたプレートがかかっているのが目に入る。
覗き込むとそこは、我が癒しの泉・・・・・・ではなかった。
「つ、つぶあん!?」
思わず声が出る。
もしやここに白あんぱんは売っていないのか、いや、先日までは置いていたはず・・・・・・ん?
よく見ると、あんぱんの隣には、妙な空間があった。
何も置いていない、とりあえずあんぱんの袋を置いてみると、いい感じに収まってしまった。
いや、俺は何も見ていない、ナニモミテイナイ・・・
奇跡の呪文を唱えるとあら不思議、なんと白あんぱんは売ってなかったことになった。
それに伴い、大幅な作戦変更を余儀なくされるのもまた事実。
仕方なく、4つ隣に置いてあったカレーパンをカゴに落とし、牛乳のリットルパックを手に、レジの最後尾に並んだ。
そこに待つ呪詛返しの恐怖など、今の俺には知る由もなかった。
「あの、その白あんぱん、上の方に入れてもらえます?」
シロアンパン・・・しろあんぱん・・・白あんぱん!!
みるみる蘇る白あんぱんへの情熱と記憶。
カゴの取っ手が、震える俺の手の中でカチカチと鳴る。
だが、そんなことは露知らず、その女性客は厄介そうな顔をした店員を尻目に、自動ドアの外に向かった。
冷や汗が背筋を伝う。
悪戯好きの女神が放った呪文が、俺の頭の中でのた打ち回る。
シロアンパン・・・・・・シロアンパン・・・・・・
俺は泣いた。
涙なく泣いた。
「あの・・・・・・こちらどうぞ・・・」
おずおずと小さな声が聞こえる。
どうやら俺の番がまわってきたらしい。
もう心の涙は止まり、俺の心は恐ろしいまでに静まり返っていた。
まったく、度の過ぎた悪戯だゼ。
呪文抵抗の低い人間には、どれだけ低位の呪文であれ、一撃必殺の威力を有しているのだ。
しかし、これで3敗目・・・もう後がない。
そう考えると、俺の心の中に、一振りの冷酷な刃が生まれた。
いいだろう、ここで1勝させてもらおうじゃないか。
「986円になります」
「あ、そこのみたらし団子も1つお願いします」
よしっ。
女神の我が侭に、俺の一刃。
明らかに嫌そうな顔をチラッと見ると、勘定を済ませる。
もちろんお釣りを貰うのも忘れない。
残念だったな、俺がお前を『敵』と認識した瞬間、お前は俺の1勝のために崩れ堕ちることに決まっちまったのさ。

       ◆

帰路。
清涼なパラダイスは、自動ドアを隔てて一変、地獄の蒸し釜へと姿を変えた。
引いたと思っていた汗も、堰を切ったように溢れ出す。
家までは後5〜6分、その間に全てが終わるのだ。
3勝3敗、何が何でも負けられない。
そんな俺の横を、一人のスーツ姿の男が、颯爽と俺を抜き去った。
それも徒歩で。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『『敵』があらわれた』
身長、体格共に、俺とあまり差はない。
だが、ヤツは俺を抜き去った、その事実が許せない。
今頃ヤツは、自分の背中を見る俺を想像しながらほくそ笑んでいるに違いない。
条件は同じ・・・いや、相手がスーツ姿なところを見ると、若干俺の方が有利にも関わらずだ。
お前にだけは、俺の前は歩かせねぇっ!
グンと歩速度を上げる俺。
『敵』の相対速度がマイナスになり、だんだんと背中が大きくなってくる。
いけるっ。
そう思った瞬間、俺の視界から『敵』は消えた。
勝った、俺は長く苦しい戦いに勝った!!
軽く上体を反らし、心の中でガッツポーズを取ると、軽く胸を張り、前を見据えた。
だが、そこにはつい先ほど見つめていた黒い背中が鎮座している。
いや、止まってはいない。
明らかに、黒い背中は小さくなっていっているではないか。
抜き返された。
即座に、家に辿り着くまでにかかる時間を計算する。
その時間、約1分弱。
それまでに、もう一度抜き返さなければ、俺はただの敗北者と化するのだ。
俺は歩速度をさらに上げ、僅か数秒で抜き返す。
苦しいのはここからだ。
先行を維持しながら、家まで辿り着かなければならないのだ。
後方からギリギリで追い抜くという手もあるが、もし追い抜けなかった場合、策に溺れた愚か者でしかない。
それでいて、絶対に勝利を収めなければならない。
しかし、絶対に走ったりはしない。
何故なら、ヤツは初めから徒歩で俺を追い抜いたからだ。
この状況、美味しすぎる。
ならば、正々堂々と真っ向勝負を挑むのが男ってもんだろ!
俺はさらに歩速度を上げた。

       ◆

「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「なぁ」
「ん?」
「アンタ、早いな」
「・・・・・・お互いにな」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「なぁ」
「ん?」
「お前、地元の人間か?」
「あぁ、一応な」
「そうか・・・俺さ、最近引っ越してきたばっかりなんだよな」
「・・・ほう、そりゃご苦労さん」
「・・・・・・なぁ」
「ん?」
「・・・・・・・・・ここ、どこだ?」
「・・・・・・・・・スマン」
「・・・・・・・・・そうか」
雑草の上に、仰向けに転がるスーツの男とシャツの男。
川原沿いの車道は静かで、足下を流れる水音のみが、場を支配している。
日の光は二人の健闘を祝福するように照らし、二人はそれを避けるかのように眼前を腕で覆った。

時刻は1600時。
男の第一次屋外会戦は、和平協定の締結と共に幕を閉じたのだった。



小説のページへ