2002年9月19日4時
すべての果てに(後編)がせきはらの元に届く。
 
2002年9月19日20時
感想第一報をぷちに送る。
 
読んだよ後編。
なかなか・・・痛い。
さまざまな意味で。
まぁ、そう言う話なんやろうなぁ、と思うしかないか。と言う感じ。
一応イチャモンをつけとくなら、
少女との別れによる少年の絶望を描くには、話が短すぎるような気がする。
少年が死んで終わりというのは、解決して俺は嫌。超主観やけど。
そんなところです。
 
2002年9月19日21時
ぷちからの反論がせきはらの元に届く。
 
はてさて、反論でも書きましょうかねぇ。
まず一言。
俺はあの作品を絶望や悲しみだけで終わらせたとは思っていない。
少なくともそれだけはわかってほしい。
君の言っていた絶望を描くための話の長さについてだけど。
俺は、絶望ってのは深さの割には以外に狭いものだと思ってる。
それをただ長ったらしく書くのは無駄にしつこくなってしまう。
例えば長編だったとしても、その絶望を長く描く気は全くない。
その分、他の人たちの描写に力を入れたと思う。
それに少年が死ぬ終わり方についてだけど。
あの作品の中において、少年の死という結果を曲げることができる人間がいたか?
断言しよう、いなかった!!
だって、少年は最後まで一人だったし、少年の決意を曲げさせようとすることはただの自惚れに過ぎない。
あの作品で、俺的に最低の終わり方は少年が少女の干渉によって生きること。
幻として出てきた少女が遠回しでも何でも「生きろ」みたいなことを伝えるのは絶対に避けたかった。
だって、結局それは少年が少女よりも生への執着を選んだってことだし。
まぁ、この辺は賛否両論だろうけどね。
では最後に一言。
人生において、常に理想が現実となるわけではない。
俺は手前勝手な理想論だけはあの話に持ち込みたくない。
以上です。
 
・・・とは言ったが、何か釈然としないなぁ。
てなわけで、君の望む終わり方ってのを聞かせて欲しい。
ついでに、何が痛いのか・・・とか、その様々な意味ってのも聞きたい。
 
2002年9月20日0時
せきはらがぷちへ送ったメール。
 
確かにあの作品が絶望やらだけを描いたものではないことは解る。
最後まで明日を信じていた少女の姿勢や、少年の死に泣き崩れる母親の姿もあった。
そう言った絶望やらだけを描くのではないからこそ、もう少し話を長くすべきなのではないかと思う。
あの長さが適当だと言うが、読者側としては展開が早すぎて、感情移入できないまま終わってしまうのではないか。
感情移入させると言うことを考えれば、あまりにも発端部、とりわけ人物像を明確にする部分が短く、不親切な作りなのではないか。
そのあたりと死で終わらせたという点が、痛いと言った中心的な意味。
反論文を見ていると、あの話は結局のところなにか支えがなければ人は生きられない、と言いたいように見て取れる。
無論それ以外の内容もあるだろうが、本当にそうだろうか。
支え無しでも生きていけるというのが本当にただの手前勝手な理想論なのだろうか。
そうは思わない。
人は生きるために生まれてくる。
生まれたあとに発生する人間関係などは、本当はいくらでも代用、変更可能で、根元にあるのは生きる意志なのではないか。
そう考えたとき、少女が死に、一人になった、あるいは一人になったと思っている少年がすぐに死を決意し、そして死ぬというのはあまりにも短絡的だと思えてならない。
さらに少年は少女のところへ行くと言う大義名分を掲げて死ぬわけだが、それも言い訳で、死ぬための口実でしかない。
そんな思いのまま死んでいく少年こそが、手前勝手なのではないか。
 
俺が望む終わり方?
少年は人生に迷うけれど、少女が死んでも世界は動くし、実は少年を取り巻く環境もあまり変わりはしない。
少年は惰性の中生き続け、いつしか新しい光を見つけ出すかも、みたいな。
 
2002年9月20日1時
ぷちからせきはらへの反論。
 
まずは短絡的思考について。
俺が思うに、果たして絶望に落ちた人間が冷静でいられるだろうか。
心のどこかで自分なりに確立された人間のあり方みたいな考え方があるならまだ少しは冷静になっていたかもしれない。
でもあの少年は完全に少女に支えられていた。
支えなしで生きられるほど人間は強くない。
支えなしで生きられると考えている人間ほど、実は影で支えられてたりするものだよ。
支えられているからこそ生きているのであって、突然に支えを失ったら倒れるのが自然の摂理。
そこで耐えられる人間は、本当に今まで一人きりで生きてきたような人間だけ。
だからこそあの少年には少女の死は、大黒柱を失った家と同然となる。
その状態から冷静に、「人は何のために生きているのか」などと考えられる人間はいない。
少年には少女の他、人生の支えになってくれる人間がいなかったからね。
まぁ、これについてはこんな感じ。
次に少年の死に対する考え方。
そう、もちろん全て少年の想像の域に過ぎない。
だが、それが今まで自分を支え続けてくれていた人間に対するものなら、それは自分にとって限りなく真実に近いものに思えてくるもの。
少女がどれだけ少年のことを思ってくれていたか、多少なりとも少年にはわかっていたはず。
約束は守れない、少女の優しさに答えてやることもできない、最後には自分が少女を苦しめていたのかもしれない。
そんなものを一人で背負って生きれるほど人間は強くない。
それをさらに支える人間が必要になる。
ここからはさっき言ったとおり。
少年が死を望んだのは確かに手前勝手。
だが、少女に会いに行くというのは理想論だが、死ぬという行動自体は理想論ではない。
むしろ現実に限りなく近い。
君の言っている「生きるために生まれてきた」というのは、生きるために目的や希望があるからこそ言えるものだ。
同時に全てを失った人間の心は少なからず壊れるよ。
最後に、人物像などだが。
これは、故意にぼかしてる。
だからこそ、名前とかはあまり使ってない。
それに、一回だけ読んで完全に納得できるほどあの話はわかりやすくないと思う。
少なくとも数回は読んでほしい。
一回でわからなければ二回、三回とね。
それでも感情移入できないなら、それはその人には合わなかったということだよ。
 
2002年9月20日11時
せきはらからぷちへのメール。
 
アンタの反撃文を読んで,ホンマ痛い話やなぁ,とか思う。
この痛いは,悲しいの意味。
限りなく悲しい話なんじゃないかな,と。
まぁ最後の母親の涙とかは,希望やら救いやらの意味がありそうには思えるけど。
悲しい話なのではないか。
俺の論からいくと,すべてを失ったものは何もしないハズなんだ。
まっているのは餓死とか衰弱死とかそう言うの。
でも,たぶん少年はこういった死に方はしていない。
それはたぶん,すべてを失ってなお,するべき事があったから。
死ぬこと。
そんなするべき事を与え,決意させたのが最も好きな少女だなんて。
痛い,悲しい話。
そんなふうに読めてしまうんですが,違うでしょうか。
一回しか読んでないから,また余裕のあるときに二度,三度読みます。
でもネット小説で理解するまでじっくり読んで,と注文するのはどうかと思う。
クオリティーにこだわるのなら,仕方ないことやけど。
そんな感じです。
以上。
 
2002年9月22日6時
ぷちからせきはらへのメール。
 
さて、続きといきますか。
そう、この話の根底は悲しみだよ。
生者は悲しみの中に何を見るのか、そこで出される答えとは何か。
今回の話で出された答えは死。
まぁ、少なくとも少年は死と捉えてないけどね。
時間という概念を無視すると、常に生者は死者を悲しみで受け入れることしかできない。
もちろん、それは望まない死に対してのみ。
さらに死者は黙して語らない。
それが幻として現れたとしてもそれは己の生み出した幻想。
結局、少なからず己の知りうる相手の中身しか作り出すことはできない。
それはまた無意識のうちに生まれるものだから、生者はその言葉を死者の言葉として受け止める。
だからこそ、その決意は揺ぎ無いものになる。
少女が喜ぶからとかはむしろ問題ではない。
少年が少女の傍にいたかった、全てはその言い訳みたいなもの。
 
俺が数回読んでほしいと言ったのは、一回でわからなかった人のため。
理解するまでじっくり読めという命令ではない。
特に理解したい人はよんでほしい・・・と。
俺的に物語はわかりやすさも重要だが、考えるという行動も必要だと思う。
では、こんなとこで。
せきはらのコメント―
ぷちサンとはよくこういう議論をするのですが、いつも自分の未熟さ、至らなさを思い知らされます。
この文、すべて原文のままコピー&ペーストしたのですが、ひどいですね、私の文。
ひどいですが、その時思って書いた言葉が一番だと思うのでそのまま掲載することにしました。
『すべての果てに』のより深い理解に役立ててもらえれば幸いです。