清水サヤカは水に溶けやすい。 家に帰るや風呂に飛び込んだサヤカは、瞬く間に姿を消した。正確には湯の中に溶けただけなのだが。 普通の人間はどんな状況であれ水に溶けることはない。 しかしサヤカは、状況によってアンモニアより水に溶けやすくなる。 状況とは彼女が『恥』を感じた時。 彼女が顔を赤らめるような気持ちの時、水気があれば水に溶けてしまう。 つまりサヤカは今、恥ずかしさに顔を赤らめているのだ。それは6年ぶりのことだった。 最後に溶けた6年前から、彼女は恥を恥と認めなかった。6年も水に溶けなかったのは彼女の努力の賜物だ。自分が異常なことは幼いサヤカも知っていたし、隠し通すべきだとも知っていた。そうして誰にも体質のことを知られず生きてきたのだが。 しかし今、彼女は風呂の湯に溶けている。今まで何があろうと恥を恥と認めなかったサヤカが、大いに恥じ入って姿を消している。 『穴があったら入りたい』ならぬ『水があったら溶け込みたい』と、彼女は顔を真っ赤にして思ったのだ。 きっかけは昨日。 三年になって初めての中間テストを前にした放課後。 音楽室で一人ピアノに熱中する少女がいた。彼女が清水サヤカだ。彼女はテスト前にもかかわらず鍵盤に指を踊らせる。美しい旋律が雨の降る世界を包む。 優しく、時に激しく。 やがて曲は最後の山場を迎え、静かに幕を下ろす。鍵盤から指を離し、ゆっくり立ち上がる。 彼女は何気なく窓辺に寄りかかり、雨音に耳をすませる。規則的なようで確かなリズムを持たない雨音。神秘的な音楽に彼女の表情は自然と弛む。 そんな時、ふとサヤカはグラウンドに目をやった。雨に打たれたグラウンド。テスト前日に人が居るはずはない。 だが、サヤカの瞳は一人のサッカー部員を捉えていた。丸刈りの少年は一人黙々とトラックを走り続けていた。一周、二周、三周―。 サヤカの眼下を通り過ぎては戻ってくる。雨に打たれて走り続ける少年と、それを見つめるサヤカ。 少年が足を止めて渡り廊下で休憩するのを見て、サヤカはずっと彼を見つめていた自分に狼狽した。 彼のことは知っていた。同じクラスの林タカオ。特に親しいわけでもないクラスメイトだった。少なくともその日までは。 そして決定的な今日の一幕。 朝礼後のテストまでのわずかな時間。生徒達は最後の勉強をしていた。一限目は国語。漢字の復習をする者や、古文を見直す者など多種多様だ。 サヤカは友達と古文の問題を出し合っていたが、目線は自然とタカオにいってしまう。 タカオは山村ヒデキと勉強している。ヒデキはサヤカのクラスで最も成績が良く、学級委員もしていて頼りになる存在だ。タカオがヒデキと一緒にいるのを見て、サヤカは少なからず驚いた。 試験官がテストの入った封筒を抱えてやってくる。生徒達は名簿順の席に座り始める。 サヤカも筆箱を手に立ち上がる。そんな彼女にタカオが歩み寄ってきた。サヤカは一瞬混乱するが、名簿順でのタカオの席が自分の席にあたることを思い出す。 サヤカは筆箱を握りしめて席を立つ。 「あれ?」 タカオに席を譲りながら、サヤカは手のひらに違和感を覚えて声を漏らした。席に着いたタカオが訝しげに顔を上げる。タカオの視線に気づいて慌てながらも筆箱の中を確認する。サヤカの顔はみるみる蒼白になっていく。 「ない……」 筆箱の中にはシャーペンも消しゴムも入っていなかった。サヤカはすぐに、昨日勉強した後筆記用具を詰め直すのを忘れていたことに思い至る。 「しまった……」 「どうしたの?」 青ざめるサヤカの背後から声がかけられた。振り向いた先にいたのはヒデキだった。 「筆記用具忘れちゃって……」 「マジかよ。俺、予備のシャーペン持ってるから使えよ」 「ほんと? ありがとう!」 「あ、清水さん」 タカオに声をかけられてびくりとするサヤカ。ゆっくりと振り向くサヤカに、タカオはぶっきらぼうに手を突き出した。 「これ、使って」 タカオの手から受け取った物は、彼が自らのプラスチック消しゴムを半分に割った片割れだった。タカオの厚意に気づいたサヤカは瞬く間に頬を赤く染める。 「あ、あの……」 「そろそろテスト配るぞー」 試験官の声に、サヤカは何も言えぬまま逃げるように席に座った。 サヤカはありがとうの一言も言えないまま帰宅した。サヤカはテストの日に筆記用具を忘れるような間抜けだと思われることが恥ずかしくてならなかった。 筆記用具を忘れたことが誰かに知れること自体は全く恥とは思わない。その相手がタカオだったことが問題なのだ。 湯と一体化したサヤカが風呂から上がるのは一時間後のことだった。 冷静さを取り戻そうと躍起になっていたサヤカは、風呂の窓から覗いていた眼に気づかなかった。 その眼の持ち主、ヒデキは、サヤカの体質を知ってしまったのだった。 |