「はぁ・・・」 本日3度目のため息をつく。 顔を洗ってもなお眠そうな目を擦りながら、山村ヒデキは軽く焦げ目のついた食パンにジャムを塗りたくっていた。 朝は米派のヒデキだったが、今日ばかりはそんなことはどうでもよかった。 時間は大丈夫かとうるさい母親の声も、寝坊して遅刻すると喚く妹の声も、ここ3日ほどは雨が続くとか、また脱税だとかで騒ぐニュースの声も、今のヒデキには届いていない。 昨日の夜に見た不可思議な現象。 突然、誰も入っていないはずの湯船の中から現れた女の子、清水サヤカ。 あの後、家に帰ったヒデキは、そのまま布団に潜り込んだ。 朝起きれば、あれは夢だったと忘れられる、そう思っていた。 実際、朝になって顔を洗うときまでは夢だと思っていたのだ。 だが、昨日窓枠に触れていたときに付いたのだろう、薄黒く汚れた両手を見て、一気に現実に引き戻された。 「あいつ、何者なんだよ・・・」 ヒデキは軽く呟き立ち上がると、行ってきますと一言残し、学校に向かった。 当然、行ってらっしゃいという返事も、ヒデキには聞こえていない。 本日の最終科目、数学が終わり、教室内に様々な声が生まれる。 数学公式やテスト問題が飛び交い、達成感や悲壮感が漂う中、その一角で、サヤカは友達とテストの答え合わせをしていた。 「あ〜、Zを二乗するの忘れてたぁ〜〜」 「あははは、ばっかでぇ〜」 他愛のない会話に相槌を打ちながら、ふと目を逸らす。 視線の先、そこは林タカオの席だった。 どうやらタカオも友人たちと答え合わせをしているらしく、たまにタカオの声で、テストの問題やその答えが聞こえてくる。 それが自分の答えと一致していたのが、ちょっと嬉しかった。 視線を戻すと、すぐまた友達の嘆きが響いた。 「えぇっ、あのXって2で割るの? ヤバイ、割るの忘れてたかも!」 「はは、もう諦めろって。 聞けば聞くほど希望がなくなるよ? ・・・・・・さてと、そろそろ帰ろっか」 嘆く友達の肩に手をやりながら、別の友達が提案する。 みんなそれに同意し、問題用紙を鞄に仕舞い始めた。 「あ、ごめん。 ちょっと用事あるから、先に行ってて」 「うんわかった。 じゃ、お先に〜♪」 サヤカの言葉に、友達は軽く挨拶を残して帰っていった。 それを見送ると、すぐさまプラスチック消しゴムの片割れを手に、サヤカは視線をタカオの席に向けた。 だが、そこには主が不在の机と椅子がぽつんと残されているだけで、主たるタカオはいなかった。 教室を見回しても、彼の姿は確認できない。 もう帰ってしまったのだろうか。 うなだれるサヤカだったが、すぐに鞄を手にすると、急いで教室を出た。 もし帰ったのなら、走れば追いつけるかもしれない。 玄関口に着くと、傘を開き、周りを見回した。 テスト中に降り始めた雨は未だ止まず、下校する生徒の大半が傘を差しているので、顔がわかりづらい。 視線をゆっくりと玄関口正面から自転車置き場に向ける。 この学校は、玄関口の右手に自転車置き場、左手に校門といった感じで、自転車通学の生徒は一度、この玄関口の前を横切ることになる。 タカオも自転車通学なので、そんなに離れていなければ、ここから自転車置き場に向かっている間に見つけられるはずなのだ。 そう考え、右手にある自転車置き場に向かって歩いていった。 自転車置き場に着くと、サヤカは足を止めた。 またゆっくりと辺りを見回すが、タカオはどこにもいなかった。 間に合わなかった。 がっくりと肩を落とし、自分も帰ろうかと思ったその時、サヤカの視線はある一点に向いた。 自転車置き場の奥、あまり人の立ち入らない場所なので、サヤカは少し驚いた。 そこには2つの人影があった。 小さな屋根が雨よけになっているので、傘を差していない二人がはっきりと見える。 片方はヒデキ。 もう1人は、ちょうど後ろを向いていて顔がわからない。 だが、それはサヤカのよく見知った背中・・・・・・そう、タカオだった。 「ねぇ山村君、話があるんだけど、いいかな?」 「お、林ィ。 何か用か?」 「あの、ちょっと込み入った話になるかも知れないから、場所変えたいんだけど・・・」 「わかった、ちょっと待っててくれ」 テストが終わり、友達も散り散りになると、タカオはヒデキに話しかけた。 ヒデキは快く頷くと、筆記具と問題用紙を鞄に入れた。 タカオの後に続くように、ヒデキも教室を出る。 緊張もあってか、足どりは若干ぎこちなかったが、タカオはできる限り急いで階段を下りた。 どうしてこんな大胆な行動が取れたのか、自分でも不思議だった。 普段なら、内に秘めたまま終わっていたのかもしれない。 だが、今回は状況が違った。 何故なら・・・・・・ 「山村君、昨日の夜、何をしてた?」 足を止め、ゆっくりとタカオが口を開いた。 同時に、ヒデキは身体を強張らせる。 そこは自転車置き場の奥。 雨は二人の声を隠すように、なおも降り続いている・・・・・・ |