静寂。 それは、どこまでも沈んで行きそうなほどに深く、触れれば簡単に割れてしまう、薄い氷の膜のように張り詰めている。 『意識を有した屍』という表現が誂えたように似合う。 動けない・・・いや、動くことを許されないでいるかのよう。 指ひとつで、この肉体が空間ごと崩れ去ってしまいそうな、そんな脅迫感。 そんな感覚を抱く屍が一つ、部屋の中に立ち尽くしていた。 「多分、拒絶反応の一種だ」 ラボの一室に不釣合いな、2人の高校生。 その一人、林タカオの一言が、空間を静から動に移す。 「誰にも会いたくない、世界中の人間すべてが消えてしまえば良い、死んでしまいたい・・・・・・そんな感情が一瞬でも心に表れたとき、本人の意思とは関係なしに水に溶けてしまうんだ。 水に触れていればね」 非・常識。 クラスで最も成績が良く、学級委員もしていて頼りになる存在であり、この場にいる不釣合いなもう一人の高校生・山村ヒデキ。 高校において秀逸とされる彼ですら、いや、秀逸とされる彼だからこそ、あまりに非科学的な話の内容を理解できないでいた。 顎に手を当て、眉間にしわを寄せるといった、典型的な悩みのポーズで固定する。 そんな疑念満載のヒデキの表情を確認し、さらに話を続けた。 「山村君は頭が良いからね、一般的な理屈で考えようとしてるんだろ? でも、事これに関しては、簡単に『拒絶反応』と考えた方が良い。 クランケである僕自身にも、ここの科学者集団にも全く理解できない」 そうかといって、いきなり考え方を変えられるはずもなかったが、ヒデキはとりあえず納得しておいた。 「それはわかったとして、清水はさっき、なんで溶けたんだ?」 とりあえず納得したヒデキの心には、疑問を抱くことができるほどの余裕が生まれていた。 ビーカーが、いつの間にか空っぽになっている。 「さっきの話を全部聞かれていたなら、拒絶的になっても仕方がない。 でも、あの雨の中で、微妙にあやふやだった内容を理解できたとも思えない・・・まぁ、多分恥ずかしかったんじゃないか? 羞恥心は、最も簡単に生まれる拒絶反応だから」 このタカオの言葉に驚くヒデキ。 もしさっきの話が聞かれていたとしたら、もしかすると自分が清水宅の風呂場を覗いていたこともバレているのではないか。 軽い疑心暗鬼。 サヤカの恋人候補として、ヒデキは立場的にかなり不利になったような気がした 「君には全部知って貰うって言ったな。 ・・・ここからは、僕・・・いや、溶ける者としての憶測だ」 声色が変わった。 「人間の体は、約70%が水分でできているって聞いたことはないか?」 突然の質問。 言葉を吟味しながら、その意味を順に理解していく。 確かに聞いたことがあった。 その表情の変化をYESと読み取ったのか、タカオは続けた。 「一度全身が水に溶け、その後、肉体を再構築する。 だが、固体の部位以外・・・つまり、元から水溶性を持っていた部分は、一度水に溶けた時点で、濃度がかなり薄くなっていて、再構築には使えないんだ。 そこで、ほかの人間の出番。 元々から構成されている人間の約70%が、そのまま水に溶けた人間の約70%となるわけだ。 どうやって繋がっているかはわからないが、液体から人間に戻るとき、同時に見知らぬ他人が変死するという事実から、これは間違いない」 小休止・・・そして話は続く。 「ここでひとつ疑問が生まれる。 残りの30%だ。 これは水に溶けた部分から回収しているようだが、そこから全て取り戻すということは不可能に近いんだ。 元に戻ろうとする時、水に溶ける前の水分は、人間というリンクから切り離される。 一瞬でもリンクが切られているんだから、その時に水に溶けた肉の部分が流れ出ないわけがない」 『わかりやすく言おう。 一度水に溶けたとき、僕たちは何かを失っている。 僕の予想だと、それは・・・・・・記憶だ』 「肉体には記憶が残る。 角膜移植を受けた人間が、前の持ち主が見ていたものを何度も目にしたとか、心臓を移植された人間が、術後突然に人格が変わってしまったとか、聞いたことがないか? 欠落しても支障は少なく、しかも新たに補充することが最も手軽だ」 「で、でも、普通記憶がなくなったら気づくだろ!?」 「さっきも言っただろ、あくまでこれは仮定だ。 それに、ただ忘れたこと自体を思い出せないだけなのかもしれない。 本人はおろか、他人でさえ気づけないだろう」 一気に展開する話に、困惑するヒデキ。 それとは対称的に、冷静に淡々と話を続けるタカオ。 だが・・・ 「彼女がそれに気づく前にあの現象を抑え・・・っっぐぁ、がっ、ぐがあぁああぁぁぁぁあっっ!!?」 突然の奇声。 喉を掻き毟り、体を弓なりに反らせ、目が飛び出すかのように大きく見開かれる。 『水分が失われていく』 ものの数秒。 次第に声はかすれ、隙間風のような音へと変わる。 そして無音になったとき、タカオは消失した。 |