空の満月を目指して、真っ直ぐに手を伸ばす。
 しかし手のひらが何かを掴めるわけもなく、月はただ空に在る。
 指の隙間から覗く満月を、ギースは静かに睨み返した。
 と、彼の耳に衣擦れの音が届いた。ギースはテラスから宿屋を振り返る。
「あれ〜、ギース様一人だけですか〜?」
「ああ、もうじき1チーム戻ってくるはずだ。それまでは待機」
「そうなんですか〜」
 肯きながら、ギースの隣にちょこんと腰を下ろすフルル。その姿を目の端でとらえながら、ギースはふと疑問を口にする。
「……なぁ、お前、大丈夫か?」
「なにがですか〜?」
 まだ眠気の抜けきらない目をこすりながら、フルルはギースを仰ぎ見る。
「なにがってお前……この仕事がだよ」
 ギースの歯切れの悪い言葉に眉を寄せるフルル。
「えっと、やっぱりよく分からないんですけど……」
「だからその……ドラゴンを倒す仕事だぞ?」
 フルルの横顔を盗み見るギース。しかし、うつむくフルルから表情は読み取れない。
「う〜ん……」
 うめき声を一つあげて、フルルは顔を上げた。その顔にはどう言葉にすればいいのか分からず困っているような色が浮かんでいた。
「そのドラゴンは、悪いことをしているんですよね?」
「ああ、村を三つ消されたらしい」
「じゃあ、仕方ないですよ」
「だが、ドラゴンにとっては人間の村を消すことくらい、罪でも何でもないんじゃないのか?」
 ギースは自分がドラゴンを弁護していることに苦笑しつつも、フルルの返事を待つ。
 しばらく考えてから、フルルは口を開く。
「でも、ギース様たちに迷惑がかかります。だからやっぱり、きっと悪いことだと思います。だから……」
「そう言うが、俺たち人間だっていろいろな動物を殺して生きてる。だがそれを罪として裁く者はいない。なら、俺たちがドラゴンを倒すというのもお門違いなんじゃないか?」
「……う〜ん、うぅ〜ん〜」
 フルルは両方のこめかみを人差し指で押さえて一生懸命考える。満月が彼女の銀髪を照らし、彼女の頭を輝かせた。精一杯の答えを導き出したフルルは、こめかみから指を離してギースの瞳をのぞき込んだ。
「ドラゴンを倒さないと、人間が誰もいなくなっちゃいます!」
 それが結論だとばかりに、フルルは自信ありげに大きく肯いた。
「そうは言ってもなぁ……」
 ギースもフルルと出会う前までは、当然のようにドラゴンを倒して生計を立てていた。しかし、フルルと共に組むようになってから、ドラゴンを倒すことに疑問を抱きはじめた。まして今日のような満月の夜は、あの日のことをどうしても思い出してしまうのだ。
「ありがとうございます」
「あ?」
 フルルの言葉に間抜けな声を返すギースの腕に、フルルのか細い手がかけられる。
「私は大丈夫です。だから……」
「だから?」
「だから、お母さんを見つけるまで、よろしくおねがいします!」
 いつになく真剣な表情のフルルに、あっけにとられるギース。そしてはたと気づく。ギースが突然意味深長な話を始めるものだから、自分が見捨てられるのではと心配になったフルルの気持ちに。
「ああ、お前の面倒くらい見てやるよ」
 ギースはフルルの頭を乱暴に撫でてやった。
「さて、そろそろ交代の時間かな……」
「あ、その前に何か食べたいです〜」
 立ち上がったギースの手を引いてねだるフルルに、あきれ顔を返す。
 そのとき、ギースの懐がぼんやりとした光りを放った。
「っと、連絡か……」
 懐に手を入れ、映し石を取り出すギース。その瞬間、月明かりの下で何かが揺らめいた。
「っく!」
 後ろに跳躍したギースの頬から熱いものが流れる。遅れて、地面に投擲用ナイフが突き刺さる。
 すぐにバランスを立て直し、戦闘態勢をとるギース。
「くそ、これはドラゴンの仕業じゃないよな……」
 宿を取り囲むように茂る森に目を走らせるギース。人の気配は感じるが、どこに潜んでいるかまでは分からない。
 ギースはロッドを構えたまま、身動きがとれず舌打ちする。
「宿の前じゃ、フルルをけしかけるわけにもいかねぇし……?」
 自分の言葉で、はっとなったギースは首を回して辺りを見渡す。
「くそっ!」
 冷や汗が首筋を伝う。
 焦りの中で森に視線を戻す。しかし人の気配はとうに消えていた。
 そして彼の隣からはフルルの姿が消えていた。
「くそ、なぜ……いや、どうやって……」
 フルルはそう簡単に捕まるほどやわではない。いや、たとえ捕まったとしても一瞬で捕まえた相手に逆襲するだけの力を持っている。それなのにフルルの気配は一瞬で消えたまま、動きがないのだなのだ。
「どうなってんだいったい……」
 悪態をついたギースの瞳に、淡い光を放つものが目にとまった。先ほど取り落とした映し石だ。映り石を拾い上げたギースは、石の表面に浮かび上がった映像に愕然とする。
 そこに映っていたのは次に待機番を交代するはずだったアズンの姿だった。そのアズンの指がもて遊ぶものに、ギースは釘付けになった。
『ギース、これがなにかは分かるな?』
「なにしてんだてめぇっ!」
 映り石からかすかに聞こえる声にギースは怒鳴り声を返す。しかし石の中のアズンは油断のない眼差しを向けるばかりだ。
『察しの通り、お前の大切な兵器は頂いた。優秀な魔法使いとして名高いお前には、この意味は分かるな?』
「お前、フルルに何をしたっ!?」
『ほう、分からないのか?』
「ふざけるんじゃねぇ!」
『やれやれ……そいつはこの中だ』
 映し石の中心にピンポン玉大の水晶体『封水晶』が映される。
「フルル!」
 封水晶を内側からぺちぺち叩くフルルの姿があった。フルルを確認するや、封水晶はアズンの手のひらに握られる。
「アズン、てめぇ……!」
『私を恨みたくなる気持ちも分かるが、これも仕事でな』
「……なに?」
『ギース、この国を馬鹿にしてはいけない。貴重な研究資料をみすみす野放しにしておくはずがないじゃないか』
「どういう意味だ……」
『そのままの意味だ。国の研究施設がこいつを欲しがった。だからギルドに仕事が舞い込んできた。それだけのことさ』
「フルルを研究施設に渡すだと……?」
 研究施設の噂はギースも耳にたこができるほど聞いていた。研究対象となったものはありとあらゆる部位を細かく解剖され、あらゆる薬品に浸され、実験される。そして最後には、サンプルとして保存されるか廃棄されるかの二通りしかない。そんな半端ではない研究が世界の頂点に君臨するガイエンを支えているのだ。
「やめろアズン、そんなことしたらどうなるか」
『ギース、どうにかなるのはお前の方だ』
 瞬間、生暖かい風のようなものがギースの背中を撫でた。
「な……」
 取り落とした映り石に映る人物が、木々の間から姿を現す。
「アズンっ!?」
 踏み出そうとした足が意図に反して動こうとせず、突然の事態に狼狽えるギース。
「無駄よ」
 耳のすぐそばからの言葉に固まるギース。目線だけを動かして背後に目をやる。
「お前は……『抱縛』のモリガンっ!」
 うめくギースの肩に顎を乗せ、彼の身体を『縛る』。縛ると言っても縄などの道具を使ってではない。彼女がただ優しく抱いているだけで、ギースは身動き一つとれないのだ。
 動きは封じられ、前方からは自慢の槍を手にしたアズンが歩み寄ってくる。さらにはその背後からは真っ黒なローブで全身を覆っている性別不詳が姿を現した。
「紹介しよう。『蓬莱』のセンだ」
 滑るように歩くセンが、アズンの隣ですっと止まった。
 そしてゆっくりと、顔を隠していたフードをとった。
「な、なに!?」
 ギースは明らかになったセンの顔に、驚きを隠せなかった。


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