夢と現との境界。どこまでも白い世界。 本来なら表に出ることもないであろう『私』が浮かび上がろうとしている。 『フルル』が望んだことではない。 『私』とあの人がお互いを利用すると決めたときから『私』は『フルル』でいると決めたから。 なのになぜ? 『私』を知る者など、『私』を起こそうとする者など……。 共に逃げてきた唯一の肉親ですら『私』を捨てて消えてしまったのに。 それなのに……どこかで感じたことのある力が『私』を呼び起こす。 『私』が起きてしまったら……彼に施した術は効果を失い『嵐王』が目を覚ます。 それは『私』が施した保険であり細工。『フルル』の望むことではない。 ……懐かしい。『私』がはっきりするにつれ起こそうとしている者の正体が分かってきた。 ……なぜ今になってなの? 兄さん……。 戸惑いの中、『私』が現の中に浮かび上がった。 何かが、頭の奥にあった何かが徐々に浮かび上がる。知らない記憶、過去。 自分の姿をした誰かの記憶。 激しい頭痛と共にそれが流れ込んでくる。 今ある記憶と食い違う今までの人生。 何がどうなっているのか? まともな考えも浮かばぬまま立ってもいられない。 「……なぜ、ギース君まで?」 フルルの覚醒が近づくと急にギースまで苦しみだした。 センも予想外だったようでわずかに困惑している。 「まさか……フルルが何か細工を……?」 ギースと何か? 痛みが引いた今ならはっきり分かる。 傀儡。偶像。模造品。 ありきたりな通り名で本来の自分を封印された者。 だが、過去を取り戻してよかったのか? 答えは否。『研究所』にかかわるのに嫌気がさしてアイツの保護と引き換えに得た新たな自分。 では、本来の自分と『ギース』が溶け合えば何になるのか? ……分からない。このままではただの欠陥品だ。 おそらく、こうなることは保険としての細工か。 それゆえアイツも戻った時のことは想定していなかったのだろう。 答えを得なければならない。 「久しぶり。……『蓬莱』のセンは『ギース』と会った時にそう言った。……その時は考える余裕がなかった上に動揺していたが、これはおかしい。どこか茫洋とした雰囲気を持つお前に飲まれ会ったことがあると勘違いした。だが、『蓬莱』と『ギース』は会ったことがない。それが正解だ」 ゆっくりと立ち上がるギース。 「俺がお前と会ったのは『ギース』になる前。あの研究所の中で、だ」 「……なぜ君が目を覚ます? 『嵐王』シン・ハイムは『ギース』の中に封印されたはずでは?」 「俺に聞くより捜し求めていた妹君に聞けばいい」 「答えは簡単。保険として。『私』も『フルル』も『フルル』でい続けることを望んだから。お久しぶりね、兄さん。今さら『私』を起こしてどうするつもり? 『嵐王』の前に私を捨てて囮にし、逃げた贖罪でも?」 フルルが水から起き上がりセンと同じように水面に立つ。だが、センの側に立つでもなく本来の名を取り戻したシンの側でもない。3者の位置はちょうど正三角形を形作る。 フルルもまたシンと同じように本来の自分を取り戻している。ギースと行動していた時のような幼い雰囲気は無い。あるのは達観した、人のそれではない雰囲気。 「ずっと一緒に生きてきた妹を追手の前にほり出しておいて今更私を探していた? どういうつもりなのか、聞かせてもらえる?」 「安全に暮らせる環境がようやく整った。だから迎えに来ただけのこと。フルル、お前は喜ばないのかい?」 「……囮にされ、置き去りにされる前なら喜んだかもしれない。けれど今は自分で『私』を殺し『フルル』として生きていく道を選んだ後……。喜べるわけも無いわ」 「……無理にでも連れて行くといったら?」 「全力で抗うだけよ」 センとフルルの間に緊迫した空気が流れる。 「この不完全で不安定な身体を元に戻せるとしても抗うのか?」 センの一言にフルルの表情が揺らぐ。 「所詮我々は欠陥品。今のままでは後もって10年。不条理な死を前に何もしないつもりか?」 「本当……に……?」 フルルがセンに歩み寄る。だが、その二人の間に突風が吹きぬけた。二人が手を取るのを阻止するように。 「完全に『嵐王』ならこんな無粋な真似はしない。だが、『ギース』の部分が止めようとしている。『嵐王』は『ギース』に判断を任せている。つまり、俺はフルルが連れ去られるのを良しとしない。……もう一言言わせて貰えばセンの、『蓬莱』の言葉はうそ臭い。妹を囮にする際すぐばれるような嘘で場を脱したようなヤツだ。兄だからと信用するのはどうか?」 センが無表情になる。 「ギース君、やはり君にはこの場を去ってもらうべきだった。君にした話は余分だったようだ。今からでも遅くない。速やかに消えてくれないか?」 光と共に伸びる翼。月明かりに浮かぶ銀のそれは神々しいまでの輝きをたたえる。 だが、その光は冷たいものでしかない。 「文字通り、消えて無くなれと?」 「自分から消えるつもりは無いだろう? フルルを今日まで生きながらえさせてくれた礼だよ、『蓬莱』の力を持って消してやる」 「兄さ―」 センはフルルが止めに入る前に鳩尾に一撃入れた。そして、再び意識を失ったフルルを水の上に浮かべる。 「たいした兄弟愛だな」 「必要なのはフルルの肉体。中身はどうでもいい」 「あっさりと本性を出したな」 「死を回避するには足りない部分を別の固体で補うしかない。もともとそういう実験のために哀れなトカゲにされたのだから」 センの体が更なる光に包まれ変貌を遂げていく。 「『蓬莱』とはこの世ではない場所。そこへたどり着く方法はただ一つ。魂だけになること。『蓬莱』を名乗って以来この姿を見たものは例外なくそこへ送られる。ギース君いや、シン君なのか? まあ、いい。君もそこへ逝くがいい」 センは完全にシルバードラゴンへと姿を変えた。その姿はギースの印象とかけ離れた禍々しい姿。 生に執着し、それゆえ歪んだ心の現われ。 「『蓬莱』が蓬莱たるように名前には意味がある。槍の名手たるアズンはその技量から『槍神』を名乗った。相手の身体に触れ、魔力でもって自由を奪うモリガンはその技能ゆえ『抱縛』を名乗った。もちろん、『嵐王』にも意味がある」 シンの周囲に風が集い始める。徐々に強くなり目に見えるほどのうねりとなる。 「荒れ狂う嵐の日に空を飛ぶ鳥はいない。いつもは翼の言いなりになる風が、空気が支配を拒むから。それはより上位のものに支配されているため。風の王たる『嵐王』の前では翼あるものが羽ばたくことは許されない。小鳥であろうと翼を持つ哀れなトカゲであろうとも」 風はさらに強くなり湖面は波立ち、木々は悲鳴を上げる。 「本来の名と力、その身に刻め。……ギースと同じと思うなよ?」 「く……この姿では……」 吹き荒れる風の中姿勢制御もままならない。完全にこの姿があだとなった。 相性が悪すぎる。ここで戦うのは得策で無いと判断したセンはすぐさま上空へ舞い上がろうと試みる。 後先考えずの逃避。生に執着するがゆえ。 しかし― 「遅いな」 シンを取り巻く風が突如その色を変える。 「上天の風第一陣。そは赤き力なり。灼熱をもって焼き焦がす風。吹きすさべ、赤熱風」 赤く色を変えた風のうねりは陽炎すら生じさせ湖面を蒸発させる。 「さて、セン。俺とフルルから平穏を奪った罪、償ってもらおうか?」 まともにホバリングも出来ない状況なのに逃げる暇などあるわけが無く― 吹き荒れる赤い風はセンを一瞬で飲み込んだ。 |