陽炎に月が揺らぐ。
吹き荒れる風に悲鳴を上げていた森は、凪いだ風にその身を静めている。
湖の周り、森が開けた大口を除いては、何も起こっていない、全てが嘘であるかのように静まり返っていた。
だが、その大口に一歩踏み込めば、龍の悲鳴すら逃れることのできない空間へと姿を変える。
その龍は文字通り我が身を焼き尽くす嵐に抱かれ、逃れることができない。
翼を羽ばたかせるが、生まれた風は例外なく『嵐王』の支配下に置かれる。
ある時は自由を象徴する翼が、センの自由を完全に奪っていた。
人間の姿では全ての力を出し切れない、だがドラゴンの姿では動くことすらままならない。
論理的に導かれる絶対的な死に、脳が危険信号を鳴らす。
『コロサレル』
己を死へと誘う声。
恐怖がセンの表層意識をかき乱す。

「ぐぁあァァぁああアアあぁあアああアァ!!!?」
「・・・・・・狂ったか、『蓬莱』!!」

嵐に焼かれるドラゴンがとる不可解な行動に、シンは一瞬目を疑った。
翼を持つ者が、風の支配から逃れるための、数少ない手段。
センの生への執着は、いとも簡単にその翼を奪い去った。
翼か死かの二者択一、彼に迷いはなかった。
正面から『嵐王』と戦ってやる必要などない。
なぜなら、目的は妹・・・同族の肉体だけなのだから。
見開かれたセンの瞳の中には、翼をもがれた兄の姿に震えるフルルが映し出されていた。

「チッ、翼を切り離したか。 だが、その程度で我が手中から逃れられると思うな―――!!?」

一点を見据え、右手を横に薙ぐ。
陽炎を裂き、フルルをその魔手にかけようとしているセンの姿を、シンの『風』は確実に捉えていた・・・・・・はずだった。
突然の激痛。
『ギース』から『シン』へと伝わる直情的感情。
頭に直接パイプを通すように感情を伝達させるギース。
オーバーロード。
シンは膝をついた。

「ぐっ、少し静かにしろ、『ギース』!!」

無理矢理表に出ようとする『ギース』を、咆哮一つで抑え込む。
舌打ちをしながら顔を上げた先には、兄の執念に竦みあがったフルルの喉笛を貫かんとする男の姿があった。
フルルの眼に映っていたのは、苦しみと喜びが入り混じり、醜く歪んだ兄の姿だった。

「い、いや・・・・・・いやああぁぁぁぁぁっっ!!」
「フルルゥーーーーーー!!!」

不協和音が響く。
次の瞬間、黒い影が舞った。




遥か高みに鎮座する満月が、私を見下ろしながら微笑む。
大地に膝をつけ、小さな人間や建物を見下ろし、泣きじゃくる私。
『醜い姿ね』・・・そんな声が聞こえてきそうで、私はただ泣いていた。

「大丈夫・・・ほら、兄さんと一緒なら飛べるだろ? 早くしないと、また捕まるから、早く逃げよう・・・ね?」

困惑し、泣きじゃくっていた私を、兄は優しくなだめた。
兄の魔法。
私にだけ効力を持つ、優しさの魔法。
自然と私の涙は静まり、二人で肩を組み、倒壊した建物から飛び去った。
無口な満月が、私たちを照らし出す。
ざわめく森が、私たちに手を伸ばす。
全てが追手で、全てが敵のように思えた。
比翼の愛兄妹。
一人では飛ぶこともできない出来損ない、欠陥品。
強化されたのは肉体のみ、硝子のようにもろい心を守ることはできない。
再び、悲しみの波が私を襲った。
また、兄は魔法を唱えた。
不思議な魔法、それは優しさの魔法。
ただ一言。

「大丈夫だから・・・」




フルルの首を、ゆっくりと鮮血が伝う。
兄の爪は、妹の喉笛に抵触したところで止まっていた。

「な・・・なに・・・?」

予想だにしなかった寸止めに、シン、フルル・・・そして当事者であるセンでさえも、驚きを隠せなかった。
ただ一人、センに覆い被さる黒い影の主を除いて。

「どうやら・・・間に合ったようね・・・・・・ふぅ・・・」

絶対抱縛。
重力による重圧でも、道具による捕縛でもない、ただ彼女に優しく抱かれているだけで、センは身動き一つ取ることができない。

「まさか・・・『抱縛』・・・!? 馬鹿な、今まで何処に・・・・・・いや、フルルを諦めたのではなかったのか!!?」

この場にいることがあり得なかったはずの人間がこの場にいる。
何より、道理外れの現実によって己の最大の目的が達成寸前で中断を余儀なくされた。
その事実が、届きそうで届かない手に憤りを感じていたセンに、新たな憎悪を注ぎ込んだ。
感情をむき出しにするセンに、さすがのモリガンも眼を見開いたが、すぐに普段の落ち着きを取り戻すと、さらに背後の森に目をやった。

「最初はそこの森の中で『槍神』と一緒にいたんだけど、『槍神』がどうしても一人でやりたいって譲らないから、私は先にメイタムに戻ったのよ。 宿でお二人の帰りを待ってたんだけど、『槍神』のいた方角から強大な魔力を感じたから、気になって来てみたの。 ・・・・・・それで、これはどういうことかしら? 話を聞く限り、穏やかじゃないみたいだけど・・・」

たおやかな物腰、この緊張感の中でさえ己を崩さない。
に前髪をかき上ると、フルルとシンを見比べ、鋭い視線をシンへ向けた。
モリガンは場の空気や二人の放つ魔力から、メイタムで会った時の二人に比べて、明らかな雰囲気の違いを感じ取っていた。

「・・・・・・で、どこから聞いてたんだ?」
「『蓬莱』が、「必要なのはフルルの肉体」って言っていた辺りかしら」
「・・・そうだな、手短に話してやろう。 センはフルルの実の兄だ。 二人は昔、研究所に弄られて、不完全な状態で逃げ出したが、再び捕まりそうになったところを、センがフルルを見殺しにすることで上手く逃げ延びた。 だが・・・」
「不完全な肉体を補う為に、フルルちゃんの肉体が必要になった・・・・・・というところね?」
「そんなところだ」

淡々と話すシンに、徐々に表情を暗くするフルルを見たモリガンは、続きを自分で続けることで話をまとめた。

「大体はわかったわ。 それで、フルルちゃんはどうしたいの?」
「・・・え?」

完全に不意を突かれた。
優しかった天使のような兄の姿に、自分を見捨てた悪魔のような兄の姿が重なる。
それでも、まだその天使の姿を信じている自分がいる。
何を信じていいのか、わからなかった。
ただ、一つだけの真実。
フルルは一歩一歩踏みしめるように歩を進め、センの眼前で立ち止まった。
そして・・・・・・
鮮血が散る。
放たれた一撃を主軸に、フルルの姿が赤く染まる。

「・・・・・・ごめんなさい・・・」
「な・・・何故だ・・・・・・フルル・・・」
「あなたは・・・私を殺しに来た・・・・・・本気だった・・・」
「フルる・・・ワタしハ・・・いツも、おまエ・・・を・・・・・・」
「あなたが、生に執着するから、あなたの欲望は終わらない・・・・・・だから、こうするしかない・・・こうしなければならない・・・・・・」
「どうシて・・・・・・・・・おマえは・・・・・・タす・・・け・・・テ・・・」
「さようなら・・・兄さん・・・、私は・・・『フルル』はあなたを許さない・・・」

それを最後に、フルルに憑いていた身体の震えが止まった。
フルルは眼を閉じ、ゆっくりと腕を引き抜いた。
同時にモリガンが抱縛を解く。
不定期に痙攣を繰り返すセンの身体は、既に機能の大半を失い、肉体の全てをフルルに預けた。
まだ暖かさを残したその身体を抱きしめ、フルルは静かに泣いた。

「・・・私はもう用済みみたいね。 『槍神』を連れてメイタムに戻るわ」
「・・・・・・うん、ありがとう・・・モリガン・・・」
「いいのよ。 あなたのこと、気に入っちゃったから・・・・・・ふふ・・・」

微笑みだけを残し、モリガンはその場を去っていった。
残されたのはシンとフルル、そして今はもう動かない『蓬莱』のセンだけ。

「さて、問題はこれからだ・・・・・・どうする、フルル?」

シンの質問は、センと対峙していた時の攻撃性は完全に消えていた。
ただ、シンはフルルの決定を静かに待っていた。


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