どこからともなく溢れ出す黒い風が、ギースを中心に渦巻き始める。 その風は徐々に勢いを増しているにもかかわらず、あたりは静寂が満たしていた。 家々を焦がす炎の音も、崩れ落ちる瓦礫の音も、人々の阿鼻叫喚さえをも飲み込むかの如く、『黒死風』は無音で吹きすさぶ。 ただならぬ気配にブラックドラゴンが重い足を後ろに下げるのを見て、ギースは歪んだ笑みを浮かべた。 そして、誰に聞かせるでもなく最後の言葉を投げかけた。 「奪え」 ギースの呟きと同時にブラックドラゴンに殺到する『黒死風』。 すべてを奪う、滅びの風。 風は漆黒の鱗に触れたとたんにそれを溶かし、みるみるうちに柔らかい肉まで浸食する。 ブラックドラゴンは顎を大きく開いて絶叫する。が、その叫びは他者の耳に届くことのないまま闇へと消えていくだけだった。 ハイム家の長男が伝統として受け継いできた禁忌の呪文。それがブラックドラゴンのすべてを溶かし、存在していた事実さえも否定するかの如く奪っていく。 究極の強奪の前に断末魔の声すら上げることもできないブラックドラゴンは、身体全体を黒い風に包まれて…… やがて闇へと消えていった。 「ギース様……」 燻る火の音が聞こえる中、フルルは地上に降り立った。 「任務達成だ」 振り返ったギースの表情に、フルルは思わず後ずさってしまう。ブラックドラゴンを葬った直後のギースが、これほどまでに爽やかな表情をするとは思っていなかったのだ。 「どうした、顔色が悪いぞ?」 訝しげに訊いてくるギースに、小さく「いいえ」と呟いて、数刻前までブラックドラゴンがいたあたりに目を向けた。 黒い風が去ったその場所には、ブラックドラゴンの骨すら残っていなかった。 ただ、地面には影のようなどす黒い液体が徐々に大地に染みこんでいた。 「ブラックドラゴンの器も、俺の前では小さなものだったようだ」 「…………」 ギースの独り言に、フルルは返す言葉を見つけられない。 沈黙の間にも時は過ぎる。 夜はじきに明けようとしていた。 ハンター仲間の妬みや尊敬の意を含んだ視線。一昨日来たときには全く気にならなかったものだが、今のフルルにとっては無性に居心地悪く感じられる。 ギースのマントを掴みながら、ギルドのカウンターを目指す。 フルルに気がついたジャックが一瞬顔をしかめたのを、ギースは見逃さなかった。 「ジャック、残念だったな」 ギースの先手の一言に狼狽するジャック。ギースは怒るでもなく言葉を続ける。 「ブラックドラゴンは片付けた。報酬をくれ」 「あ、ああ。ご苦労だったな」 「……」 ジャックがギースとフルルの報酬分、計20万をカウンターに並べた。ギースは無言のままそれを麻袋に放り込んでいく。 「ギース、フルルちゃんのことは悪いと思ってる。だがこっちも仕事だったんだ。許してくれよ」 「別に許すも許さないも咎める気はないさ。フルルもこうして無事だしな」 言いながらフルルの頭を撫でるギース。フルルはくすぐったそうに片目を閉じてギースを見上げた。 にべもないギースを諦め、ジャックはフルルに笑顔を向ける。 「っと、フルルちゃん、今日は何が食べたい? 色々あったことだし、今回はサービスさせて貰うよ」 「いえ、今日はいいです……お腹減っていませんから」 「へ、へぇ……珍しいことがあるもんだ……」 フルルの普段からは考えられない言葉に、ジャックは声を裏返らせた。 「フルル、そろそろ行くか」 金を仕舞ったギースはおもむろに歩き始める。 「あ、はい、ギース様」 ギースの後を追おうと、駆け足で歩み寄ろうとしたフルルだったが。 「あぶないっ!」 ジャックの言葉も虚しく、フルルは椅子に立てかけてあった変え用の窓硝子を蹴飛ばしてしまった。 音を立てて割れた窓硝子はフルルの膝に突き刺さり、早くも血が流れ始めていた。 「あいたたた……」 「あちゃ、待ってな、今消毒液持ってくるから」 裏へ回ろうとするジャック。だが、ギースは割れた窓硝子代だけテーブルに置いて、すぐにフルルの手を引いて歩き出す。 「あ、私なら大丈夫です、さようなら!」 フルルはあわてて別れを告げて、ギルドを後にした。 ギルドにいたハンター達は、二人が出ていった扉を見つめていた。 「あいつら……変わったな」 ジャックの呟きが二人に届くことはなかった。 また、二人がこのギルドを訪ねることも、今後永久にない。 「見せてみろ」 町はずれまで来たところで、ギースは立ち止まってフルルの足の傷を見た。 「ギース様、それが……」 「傷が……治っている?」 「はい、そうみたいなんです」 「何故?」 屈んだまま顔を上げて問いかけるギースに、フルルは言葉を濁す。 「たぶん、兄さんを……」 ギースはその一言だけから即座に一つの仮説を立てた。 すなわち、フルルがセンを殺したことで、より完全な存在に近づいたのではなかろうかという仮説。皮肉なことに、フルルは知らず知らずのうちにセンが目指したことを達成したのではないかと。 どんな傷も再生し、老いることなどなく、死ぬことさえない絶対的な存在。 「ふっ……まさかな」 ギースは一笑でその可能性を否定した。 (シルバードラゴンと言えども所詮は人が作り出した存在。それが自然界の法則から逸脱できるものか) ふとフルルを見やる。その顔には不安の色が濃く窺えた。 ギースは立ち上がり、フルルの頭をくしゃくしゃと撫でてやる。 「痛むのか?」 「いいえ、もうすっかり」 微笑みながら答えるフルルに、頷きを一つ返すギース。 二人は見つめ合ったまま真剣な表情を作った。 「俺たちは、変わってしまった」 ギースの言葉に、唇を真一文字に結んで頷くフルル。 「俺は、ブラックドラゴンを殺すことにこの上ない悦びを感じた」 フルルはあの時のギースの笑顔を思い出して、俯いた。 「お前は同胞を失った。その代わりに再生能力を得て、おまけに腹が減らなくなった。もうお前を欠陥品呼ばわりする奴はいないだろう」 ますます俯くフルルの頭頂を見つめながら、ギースは口調を一変させた。 「だが、そんなことはどうでも良いことだよな」 その言葉にフルルは訝しげに顔を上げた。ギースは真っ青な空を振り仰いでいる。 「俺とお前がこの空の下にこうしていることは、何にも変わっていないんだから」 同時に空からフルルへと顔を戻したギースは、「な!」と同意を求める声を投げかけて、そのまま歩き始める。 呆然と立ちつくすフルルは、ハッとなってギースの背中に焦点を合わせなおした。どんどん小さくなっていくと思ったら、ギースは駆けだして行っていたのだ。 自分の語ったことにこっぱずかしさを覚えて走りだしてしまったギースだったが、フルルに知れることではない。 「はいっ!」 ずいぶんと遅れた返事に苦笑しつつも、ギースは駆け寄ってくるフルルを優しく迎えた。 「っと、元気になったところ早速で悪いが、ドラゴンになってくれるか?」 フルルは突然の申し出にも「はい」の一言でシルバードラゴンへと姿を変え、ギースを背中に導いた。ギースの指示を待たず、フルルは大空へと舞い上がった。 「じゃあ、行こうか」 「どちらへ行きます?」 フルルの声に、ギースは挑戦的な微笑を浮かべる。 「日の沈む方角、目標、蓬莱!」 「え……?」 蓬莱とはこの世ではない場所。そんな場所、日の沈む方角にはない。 だが、ギースは自信たっぷりに言う。 「なんだ、聞こえなかったのか? 俺たちは蓬莱を目指すんだ!」 無茶苦茶な言葉にフルルは無性に笑えてきた。しかしその言葉を否定する気も真意を問う気も全く起こらなかった。 「了解!」 言うが早いか大きく一つ羽ばたいた。 青空を悠々と飛翔する姿には、もはや比翼の龍の面影はない。 (この人となら、本当に蓬莱にだって行けるかも知れない) 大きな期待を胸に、フルルは太陽を背にして空を駆けるのだった。 |