己がみちを


 ……あー、じれったい!
 さっきからあの二人、ちっとも動かないじゃない!
 人の気持ちも知らないで、もう……
 そりゃあ、通りを一つ挟んだところからのぞき見している、私の気持ちなんか知らないでしょうけど……

 …………

 ともあれ!
 唾をこくんと飲みこんで、二人の方を注視する。
 検査は、無事に始まった。
 あとは時間が勝手に、結論へと導いてくれる。
 嫌でも、答えが出る。
 導き手になれるかどうか、時間が勝手に―
 そんなドキドキする私の気持ちを知ってか、沈黙は突然破られた。
 さっき降り立った、スーツに身を包んだ細身のメガネ男が口元を少しゆるませた。




 「ふぅ……」
 やれやれ、言われるままにこんな路地裏まで来てみれば。
 いるのはTシャツにジーパンの、どこにでもいる、ただのありきたりな少年ではないですか。
 正直、落胆です。
 「おいてめぇ!」
 この話し方……
 どうにかならないのでしょうかねぇ。
 「なんでしょう? ……と、その前に……」
 そこで言葉を切って、もう一度、少年の顔を横目で見てみました。
 眼光は鋭く、戦う者特有の光を宿していますね。
 たらりと垂れる前髪がうっとうしい……と、髪は人の事は言えませんか。
 「その前に、なんだ!」
 おっと、間を作りすぎましたか、それにしても良く吠える口だことで。
 「その前に、『てめぇ』呼ばわりはやめて欲しい、と言いたかったのですよ」
 次の科白のあとに、少年がどんな反応を見せるか想像すると、つい口元が弛みます。
 「貴方とか、先生とか、他にもあるでしょう?」
 「なめんなこの野郎!」
 「その口のきき方ときたら……本当に、がっかりですよ」
 口ではがっかりと言いましたが、実際は予想通りの反応が見られてなかなか笑えます。
 「何が言いたい!」
 じり……と一歩寄ってきたのを、私は視界の端で確認します。
 「それじゃただの不良少年ではありませんか」
 「不良少年の何が悪い!」
 「ほらまた吠える……不良少年なんて群れているだけで、単体でウジ虫同然じゃないですか」
 そんなのと戦っても、ちっとも面白くないじゃないですか、と心の中で付け加えて。
 ちらりと少年の表情を窺ってみました。
 一瞬その顔に、皮肉を込めたような笑みが浮かんだのを私は見逃しませんでした。
 「おあいにくさま! 俺は群れねぇ、いつも一人で戦ってきた!」
 やれやれ、と私は意識して肩を軽くすくめました。
 すくめた肩を下ろすか下ろさないかの瞬間に、少年の拳が顔面めがけて迫ってきます。
 が、それは予想済みです。
 「うをぉ!?」
 私がすんなりと避けてしまったので、少年は壁に激突してしまいました。
 本当に……がっかりです。
 「くぅぅ……」
 おやおや、肩を抱えて歯を食いしばっていますよ。
 それでもすぐに、構えなおしてこちらを睨み付けるのは立派ですが。
 そしてまた口元を歪めて、不敵な笑み(とでも言えばいいのでしょうか?)を浮かべるのです。




 「いいぜお前、最高にいい!!」
 半端じゃない強さだ。
 完全に不意を突いたと思ったのに、かすりもしなかった。
 スーツ姿でメガネかけてるけど、こいつは鈍っちゃいない、研ぎ澄まされてる。
 俺を見下げるのも無理はない、俺なんかよりもずっと強い。
 すんなり認めてしまうほど、それほど強い。
 「最高にいい……けど!」
 俺よりずっと強いけど!
 「勝つのは俺だぁ!!」
 俺はもう一度、ヤツの顔面めがけて右の拳を思いっきり叩き付けにいく。
 当たるとは思っていない。
 さっきとおんなじでは外れる。
 俺は唇をかみしめた。
 おんなじで駄目なら、さらに上を!
 「っおおおおおお!!!」
 全身のバネをフルに活用した、最高の拳。
 直線的な軌跡を描いて、真っ直ぐヤツの鼻っ柱をとらえている。
 (これで……どうだぁ!!)
 やった、と思った。
 俺の拳が、ヤツの顔にめり込んだ。
 そう思った。
 だが、ヤツの鼻の真ん前で、俺の拳が止まっている。
 俺は開いた口がふさがらない。
 ヤツがかけていた縁なしのメガネが、乾いた音を立てて落ちた。
 俺の右腕が、ヤツにしっかり掴まれてびくともしないのに気づいたときには遅かった。
 ヤツの、メガネ越しではない肉眼が、ぎろりと俺の方を向いた。
 と、急に腹が軽くなった。
 と思ったら、重くなった。
 で、猛烈に痛くなった。
 腹だけじゃない、足も麻痺したみたいに、動かなくなっている。
 「く……くはぁっ……」
 腹を抱えてうずくまるが、なんとか目だけを上げてヤツを睨む。
 「……ふぅ」
 ヤツは軽く頭を振りながら、地面に落ちたメガネを親指と人差し指でつまみ上げる。
 「すみません、少し熱くなってしまいましたね」
 そんな事を言って、俺を冷ややかな目で見下しやがる。
 だからといって、言い返す言葉はもうない。
 みぞおちの痛みも手伝って、しゃべる気にすらならない。
 完敗だ。
 俺の拳が片手一本で、簡単に止められた。
 さらにヤツの一撃は、俺の拳の比ではない。
 俺に出来る事は、もうそう多くはない。
 ただ一つ出来る事は、睨み付ける事だけだ。
 そんな俺を見ながら、ヤツはおもむろにスーツの懐をあさりはじめやがった。
 ほどなくして、革製の財布が出てくる。
 (なにをしやがる?)
 行動が読めないまま負け犬の睨みを続けるだけだ。
 ヤツは財布の中からカードサイズの白い厚紙を取りだした。
 それを俺の足下に無造作に投げやがる。
 足下にそれが転がっても、しばらくはヤツから目を離さない。
 ヤツにはそれが焦れったかったのか、顎をしゃくって『早く見なさい』と言いやがる。
 俺は仕方なく足下の紙に目を向ける。
 『詩宮株式会社 代表取締役社長 詩宮 瑞雅(うたみやみずまさ) 電話番号―』
 「しゃ……社長だぁ!?」
 腹の痛みも忘れて声を出したので、さらに激痛が走る。
 「社長なんて、金さえあれば誰にでもなれますよ」
 それだけ言うと、ヤツはくるりと背中を向け、表通りに出ようとしやがる。
 声を出せば痛い事は分かっている。
 さっき実証済みだ。
 が、言わずにはいられない。
 「待て!」
 ん? と言った表情で、ヤツは顔だけこっちにむけやがる。
 「俺の名は!」
 動かない足に鞭打って、なんとか立ち上がる。
 「俺の名は昂坂 美鶴(こうさかみつる)!」
 びしっ! と、ヤツを人差し指でさす。
 「おい詩宮! 今度会ったらぶっ潰してやる!」
 ヤツはそれで話は終わったでしょうとでも言いたげに、道を歩き始めた。
 そのまま行き去ると思いきや、ふと思い出したという風に振り返りやがった。
 「強くなったら、そこに電話して下さいね。待ってますから」
 「…………」
 俺の口からはもう、一声も出ない。
 「人を殴ったのは五年ぶりです。……昂坂君、自慢してもいいですよ。私に殴られた……ってね」
 「おちょくるのもたいがいにしやがれ!」
 怒鳴って、また腹に鈍痛が広がる。
 詩宮の野郎は、やれやれとでも言わんばかりに肩をすくませる。
 「ま、なにはともあれ強くなって下さいね。……期待していますから」
 去り際にそれだけ言い残して、消えやがった。
 いや、実際は俺の意識が消える方が早かったのかも知れないが。



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