己がみちを
真白と夜鳥
「従え」 黒装束の女性は、ガラスのような澄んだ鋭い声でそう言いました。 またしても、それだけを言いました。 昂坂君を倒してすぐ、女性は再び私の前に現れたのです。 それは、昂坂君と対峙する少し前のこと― 残っていた仕事に区切りをつけて席を立ったときには、壁に掛けられた時計は四時を指していました。 しかし私は焦るでもなく、ゆっくりとデスクの間を歩き、ドアノブを回して外へ出ました。 そして、事務所の鍵をかける私の背後に、突然黒装束が現れたのです。 「……なんの用ですか?」 私はゆっくりと振り返りながらそう訊ねました。 黒装束はどこまでも黒。しかし目だけは露出され、月明かりに輝いています。 体つきからして女性であることは一目でわかりました。 (しかし、明け方に黒装束の女性が一人…… 少なくとも面接を受けに来たわけではなさそうですが。) 私は無言のまま、黒装束の口元あたりを眺め、言葉を待ちます。 傍から見れば、斜めに立ちポケットに手を入れる私はリラックスしているように見えたかも知れません。 しかし実際は、黒装束のどんな動きにも対応できるように準備が整っているのです。 黒装束が何者かわからない限り、決して油断はできない― そんな、どんな状況になっても耐え抜く用意をしていた私の予想を裏切り、黒装束の唇が動きました。 黒装束の第一声は、こんな科白でした。 「私は夜鳥(やどり)。強くなりたかったら、私に従え」 彼女は跳ぶように屋根を走り、私は返事の一つもせずについて行きました。 彼女が向かったその先にいたのが、昂坂君だったのです。 再び現れた夜鳥は、そんな一単語のみを私に浴びせかけました。 「…………」 私は返事をしません。 迷っているわけではないのですが。 ただ、返事をしません。 夜鳥はそんな私を、真っ直ぐに見つめ返します。 深く鋭い、刃物のような輝きを宿すその瞳で。 私は、やれやれ、と少し首を振って、口を開く事にします。 「昂坂君に会わせてくれた事には感謝します」 それだけ言って、また夜鳥の鋭い目をのぞき込みます。 「従え」 再び、同じ言葉が返ってきました。 予想通りではあったけれど、私の口からは思わず苦笑がこぼれてしまいました。 一体何なのでしょうこの人は。突然現れては、見知らぬ少年と喧嘩をさせて― 挙げ句の果てに、口から出るのは、従え、一辺倒。 本当に……面白いじゃないですか。 「ええ、従いましょう」 「…………!?」 夜鳥は私のあっさりした調子に虚をつかれたのか、少し逡巡するように目をせわしなく動かします。 私は初めて見る夜鳥の動揺に、またしても苦笑がこぼれてしまいました。 昂坂君もそうでしたが……夜鳥も相当、面白い― 夜鳥は結論に達したのか、私の目をしっかりと見つめながらこう言いました。 それは、今日何度目かの、彼女定番のたった一言― 「……従え」 「おーい、起きなさーい、朝ですよー」 …………頭が…………痛い………… 「おーい起きろーぅ、いつまで寝てる気だー?」 ……気分が……悪い…… 「おい、起きろってば! どこで寝てると思ってるのこの浮浪者!」 ……浮浪者じゃ……ねぇ…… 「……じゃねぇ」 「お? 起きた、起きたの?」 「浮浪者じゃねえって言ってんだよ」 頬がやけに冷たかったのは、うつぶせに寝ていたせいらしい。 両手をアスファルトについて、重い体を持ち上げる。 ふらつく足で、なんとか立ち上がる。 「おー、起きた、起きあがった」 俺は首の後ろに手を当てながら、さっきからうるさいそいつに目をやった。 高校生くらいか、身長は140前後、細身の体。 要するに、ちっぽけな、どこにでもいる非力なガキだ。 「なんだチッコイの、俺になんか用か?」 腹にはまだ鈍痛が残り、気持ちの悪い眠気がまだ抜けきらない。 それでも、いや、だからこそ? 俺は目の前のガキに用件を訊く。 俺も情けなくなったもんだ。ほとほと嫌気がさしてくる。 「ま! チッコイの、ですって!?」 俺の、些細な一言に頭から湯気を立たせていやがる。 何も出来ない、ちっぽけな女。 そんな事を思って侮ってかまえていた瞬間。 「詩宮瑞雅に手も足も出なかった癖に!」 「……なに?」 思わぬ口から飛び出した名に、俺は女を睨み付ける。 事実だとしても、こんなヤツに、アイツとのケンカをとやかく言われるいわれはない。 だいたい、なぜそのことをコイツが知ってやがる? くそ、腹が立つ。 「いきがってばっかで、なんにもできなかったじゃない!」 「……なんだと!?」 言わせておけば……と、怒りが沸点に近づく。 が、不思議と気持ちは軽い。 鼻につくセリフ、カンに障る態度、非力を盾にするコイツの存在自体にさえ、許せないはずなのに。 はずなのに、俺は、コイツに拳を向けられない。 何故か。 それは、コイツが言っていることが全部事実だからだ。俺は負けたし、手も足も出なかった。 「そんなあんたのために無駄を承知で残業してやってるのに、チッコイのですって!?」 何のことだか分からない事を言いだしやがるが、こんなに目くじらを立てて怒るほどの事なのだろうか。 怒りたいのは俺の方だ。 だが、このままコイツが何者なのかもわからないまま逃げられるのは癪だ。 俺は下手に出て、話を聞き出す戦法をとることにする。全く……姑息になったものだ。 「ああ悪かった、じゃあなんて呼べばいいんだ?」 「うわ、名前を聞き出してどうしようって言うの?」 今度は思いっきり不審人物を見るような眼差しを俺に向けやがる。 「ちっ!」 俺は舌打ちした。どうもこの女はやりにくい。明らかに俺とは相性が悪い。 「冗談よ冗談、真白(ましろ)」 「……あ?」 「名前よ、あたしの名前は真白です。ってね。 ……コードネームだけど」 マシロ。変な名だ。最後にぼそっと付け足したコーなんたらも意味ありげだが。 「……で、そのチッコイマシロがなんの用だ?」 ふと、普段なら相手もしないような小娘と喋っている自分を不思議に思う。 俺のからかいに口を歪めるマシロを見ながら、自分自身に目を向ける。 「あんた負けたでしょ」 ああそうか、と俺はすぐに納得する。 会話の内容が、退けられない話題だからだ。 戦いに敗れ、その事実にすら背中を見せるわけにはいかない。 「ああ、負けた」 俺はむしろ、胸を張ってそう言ってやった。 マシロは変な顔で俺を見る。 「あんたが負けたせいで私も負けたのよ。少しは恥じなさいよ」 何のことだかさっぱり分からないことを言いやがる。 だが今までの話で分かった事がいくつかあった。 マシロは俺と詩宮が戦っているところを見ていたと言うこと。 そして俺と詩宮の戦いには、ケンカ以外の何か別の意味があったらしいと言うこと。 あと、この女がマシロという名だと言うこと。まぁ、これはどうでもいいことだろうが。 「で、なんか問題あんのか?」 俺はとりあえず、続きを促す。 「大アリよ……勝ってくれたらなんにも問題なかったのに」 我が身の失態のように沈むマシロを見ていると、なんだか本当に俺が悪いような気になってくる。 俺としては、負けたにしろ詩宮と戦えた事には満足しているのだが。 「んで、負けた俺になんの用なんだよ?」 小娘の愚痴を聞き続ける気はさらさら無いので、先を促す。 「んー、迷ってるんだけどサー」 勿体ぶったようにそれだけ言って口を閉ざすマシロ。 「なんだよ?」 「……美鶴」 びっくりした。 女に下の名前を、しかも呼び捨てで呼ばれるなんて最近では滅多になくなっていた。 しかしそれ自体はまったく話に関係ない。 「な……なんだよ?」 マシロの顔はやけに真面目くさったものになっている。 「あんた、強くなる気ある?」 そんな事を言いやがった。 強くなる気ある? だと? 強くなる気ないとでも思っているのか? この俺が? 俺は逆に面食らった。 そして笑った。盛大に。 「ちょっとなに笑ってんのよ、気持ち悪い」 俺はやっとのことで笑いをやめ、マシロを見つめた。 「悪ぃ、あんたがあんまり面白い事を言うもんでな」 マシロはムッとする。 俺はすぐに言葉をつなぐ。 「ああ、強くなる気あるぜ、満々だ! なるなと言われようがなってやる!」 あきれたような顔になるマシロだが、ふぅ……とため息を漏らして俺に向かって口を開く。 「まあいいわあんたで。他を探すの面倒だし……強くしてあげる」 「はぁ?」 俺はこの時、コイツが何を言っているのかわからなかった。 だが、すぐに思い知らされる事になる。 つらく厳しく、やたらと痛い、強くなるための道に、このとき足を踏み入れてしまったことを。 |