己がみちを
雨
導き手候補には日常生活を送れない者が多い。 そんな中で私は、ぬけぬけとその日常生活を送っている。 多少歪んでいるにしても、歓迎すべき日常。 私は教室の隅、窓際の座席から外を眺める。 窓枠の向こうに広がる世界はでも、かつて感じた広がりはなく、どこまでも白々しい。 敷き詰められた住宅、公園の錆びたブランコ、歩道に並ぶ街路樹の線― 空と雨だけだ。 私は思う。 空と雨だけは、いまだに人間の手に侵されていない。 空はどこまでも広く高く、人間を見下ろし続けている。 雨はどれだけ人間が拒もうとも、お構いなしに降り続ける。 そんな事を考えていると、私は急に悲しくなる。 空が人工物で埋め尽くされるのはいつの日だろう。 雨が人間の力で制御されるようになるのは、いつの日だろう。 それでも私は窓の外を眺め続ける。 いつしか私は、祈るような気持ちで外を眺める自分を自覚する。 しとしとと降り続ける雨の中、一羽のカラスが力強く翼を羽ばたかせた。 カラスの飛び去った空に、朱色の雨が舞う。 湿っぽい小さくなったチョークが、黒板に白を彩った。 授業が終われば、真っ直ぐに家に帰る……なんて事は私の場合、有り得ない。 私の放課後は、導き手候補としての時間。 いや、先日晴れて正式な導き手になったのだから、これからは導き手としての時間、か。 街を歩く私は、一体どんな表情を浮かべているだろう。 詩宮瑞雅。 確かに強い男だ。 強いだけじゃない、賢い男。 彼であって良かった、そう思う。 彼は詮索をしない。 向かい合っていても、そこにある確かな壁。 それが私を安心させる。 私は交差点を左に曲がり、待ち合わせの場所へと足を進める。 走り去る車がまき散らす、水しぶきを避けながら。 歩道にある雨よけとベンチ。 ここが待ち合わせ場所のバス停だ。 彼はさも当然のようにベンチに座り、足を組んで本なんかを読んでいた。 悠々と、余裕たっぷりに。 私のような偽物ではない、確かな日常生活を目の当たりする。 言いようのない怒りが、私の頭を熱くする。 ポケットに入っているものを強く握り直し、予備動作無しで水平に投げ放つ。 何千、何万回と訓練した動作。 それは、ものすごい速度で彼のこめかみめがけて飛んでいったはずだ。 はずなのだけれど、次の瞬間には私が投げた十円玉は、彼の掌に収まっていた。 怒りはすぐあきらめに変わるが、耐え難い悔しさがふくれあがる。 唇を噛む私に、彼は少し驚いたような、おどけた表情を作る。 「おや? 今日は黒装束ではないのですね」 学校帰りなのだから、当然だ。 私はてのひらに残る十円玉一枚、百円玉二枚を親指で一枚ずつ飛ばして彼に渡す。 さっきのような攻撃の意志はないが、ついつい飛ばす親指に力が入る。 「おやおや、物騒なバス賃の渡し方があったものですね」 減らず口の多いヤツだ。と思うのも確かだが、案外私は、こんな無駄口が嫌いではない。 私は傘をさしたまま、本を片手に私を見る、涼しげな彼の目を見続けた。 沈黙の中向かい合っていると、程なくしてバスが到着した。 私はバスの乗り口に足をかける。 彼が腰を上げるのが分かる。 私は首を後ろに回し、いつものように一言だけ言った。 「従え」 バスに乗車して、私は一人がけの椅子に座った。彼は後方で吊革に手をかけている。 雨の中を、バスはいつも通り、着実に進んだ。 駅を経て、一人、また一人と乗客が減っていく。 席が空いたところで、彼が私の後ろに座った。 だからといってなにを話しかけてくるでもなかった。 私もそのまま窓の外を眺め続けた。 彼は今、一体なにを見ているだろう、などと、頭の中ではそんなことを考えていた。 とうとう乗客は私たち二人になり、終点に到着する。 運転手が不思議そうな顔で降りる私たちを見た。 バスを降りると、左手には緑で溢れる山、前方に登り坂。つまり、山道への入り口少し手前だ。 といっても、人里離れた場所というわけではない。来た道には民家がたくさんあるし、小学校も見える。 しかし、平日の夕方に美少女とスーツの男が二人でこんなところへやって来るというのは少し異様だ。 いつまでもこっちを向いている運転手の視線を無視して、私は無造作に左手の山道に足を踏み入れた。 獣道さえない、何もないところを歩く。足の裏に落ち葉の柔らかい感触が残る。 運転手の反応を窺うのも面白かったかも知れないが、どうでも良いことなので足を進める。 後ろから、しっかり落ち葉を踏みしめる柔らかな足音が聞こえた。 薄暗い森の中、私と彼は対峙していた。 「ふぅ……こんな事だろうと運動靴にしてきて良かった。もっとも、登山靴で来ればベストだったのですが」 のうのうとそんなことを言う詩宮。言いながら、ネクタイを弛めている。 「これからおこなうことの予想も、察しがついているみたいだな」 私の発言に、上着のボタンを外す彼の手が止まる。 「おや、ちゃんとまともにしゃべれるのですね。それは良かった」 こんな発言にいちいちのる私ではない。私は一瞬で制服を脱ぎすてる。 制服の下は真っ黒なTシャツ一枚。下のスカートはそのままなので、どうにも間抜けだが…… 「おやおや、こんなところ、他人には見せられませんね。私が捕まってしまう」 「捕まる程度の人間なら、私がこの手で警察まで連れて行ってやる」 私の言葉に彼の口元が弛んだ。木々の間をすり抜けた雨粒が、時々私の頬をうつ。 私は肩幅より少し広い程度に歩幅をとる。彼の姿勢は変わらない。 「では、始めましょうか?」 なぜ開始までヤツに仕切られなければならないのか謎だが、どちらにしろ始めるのだ。 私は一つ、息を吐く。 一瞬、森のざわめきや、雨粒の音が完全に消えたような錯覚に陥った。 しかし、詩宮が緩慢に揺れるさまだけは変わらない。 私は始める前に、一つ言おうと思っていた言葉が残っていることを思い出した。 構えたまま、一言、詩宮瑞雅に言い放つ。 「私を、倒せ」 |