己がみちを

始まり


 引き返さなかった。

 いや、引き返せなかった。

 だから今、僕はここにいる。

 未だに僕は、ここにいる。

 過去に縛られるまま、ここに留まらざるを得ない。


 笑ってしまう。


 冗談みたいに豪華なデスクもイスも、居心地悪そうに、でもそれを悟られないよう座り続ける僕自身も。
 

 笑ってしまう。


 ノックの音が聞こえる。

 背もたれに預けていた身を、ゆっくり持ち上げて―

 口元の前で、やわらかく指を組んだ。
   



 閉ざされたドアの前には、時期はずれに紺のコートを着た少女らしき人影が一つ。
 そんな人影が、杖を手にしていない方の左手でノックしている。
 ノックをするたびに、彼女の混じりけのない肩丈の金髪が軽く踊る。
 人前で思い出し笑いをするときのような、押さえきれずにもれる笑顔。
 そんなものが彼女の愛らしい顔に浮かんでいた。
 と、ドアの向こう側からよく通る澄んだ声が聞こえた。
 「……どうぞ」
 「はーい!」
 ばん!
 両開きの扉を勢いよく開き、跳ねるようにデスクに歩み寄る少女。
 「グッド……モーニング」
 「またまたあらたまっちゃって、朝でも昼でもそれなんだから」
 デスクの男は、その部屋の雰囲気に普通なら浮くような年頃の少年だった。
 まだ中学生ほどの外見なのだ。
 それなのに不思議とその場に馴染んで……いや、むしろ当然のように、豪華なイスに座している。
 その姿に違和感はまったくない。
 「……まぁ、なんていうか、挨拶はこれがしっくり来るんだよ」
 少年は少し表情を崩してそう言った。そこには年相応の笑顔が浮かぶ。
 しかしその笑顔にも、まるで老人のような、ほのかな哀愁が漂っている。
 「そりゃ、ここ何年もその挨拶だけどぉ」
 少女はデスクの裏に回って、少年の肩にしなだれかかる。
 少年は、よせよ、と言うように手で払うが、少女は構わずピッタリ張り付いた。
 「……で、何か用があるんじゃないのか?」
 少年は少女をはがすのをあきらめて、デスクに肘をついて少女の乗っかっている肩と逆の方を向く。
 「そうそう、報告! セピアちゃんレポート!」
 自分の事をセピアちゃんと言った少女は、左手の人差し指をピンとたてた。少年の肩が少し軽くなる。
 「報告? ……めずらしいな」
 「なによぅ、私だってちゃんと働いてんのよ」
 セピアの頬がぷくっと膨れる。
 少年はふぅとため息を一つ漏らす。
 「報告を」
 「なによ無愛想な! ……まぁいいわ、面白い話よ」
 セピアの口が少年の耳元に寄る。
 首筋にセピアの髪が触れて、少年は居心地悪そうに身をよじった。
 「……夜鳥の方が選ばれたのは知ってるわよね?」
 「ああ、詩宮、だろ? 昨日会った。強い男だ。油断も隙も、掴み所もない男だ」
 少年は目を閉じて、ゆっくりとだが一息に言った。
 閉じられた瞳の裏側では、詩宮との対面の場が回想されているのだろうか。
 少年の顔には平静を装っているようで、どことなく焦燥感が漂っている。
 セピアの細められた横目が少年の眉間のシワを静かに見つめる。
 「そうその詩宮君が勝った方。で、面白いのは負けた方の話なのよ」
 普段は大きなセピアの目がさらに細められて、少年の表情の変化に注目する。
 少年は頬杖をついたまま、真正面にある逆向きのセピアと目を合わせる。
 デスクに両手をついて、頭上から覆うようにこちらをのぞき込むセピアの青い瞳。
 「……昂坂が、どうかしたのか?」
 少年の反応に満足したのか、セピアは笑顔でうなずく。
 「真白が諦めてないのよ、まだ付いてるの」
 「付いてるって……」
 少年は頬杖をやめて身をおこす。セピアも密着していた体を離した。
 「まだやる気。昂坂君の強さを証明する気よ」
 「真白がか……意外だな」
 少年は部屋に敷かれた絨毯に目をおとす。
 (詩宮を見たとき嫌な感じがした。
  底が知れない……よく分からないがとにかく嫌な気配。
  彼は確かに強い。
  彼が相手だったのなら、真白が諦められない気持ちも分かる。
  だが……)
 真っ赤な絨毯が、部屋を埋め尽くしている。
 少年の視線は、絨毯の朱から離れられない。
 (だが本当に、僕のやろうとしている事はこんな事だったのか?
  ……わからない。
  たぶん現状では、いくら考えても分からないはずだ。
  僕は知らなすぎたようだ。

  ただ言える事は、詩宮のような人間がたくさん現れるようであれば……
  ……僕もここに腰を落ち着かせている場合ではなくなるということだ。)
 「私たちも、うかうかしてられないわね」
 少女の声が聞こえる。
 「ヴァートも頑張りなさいよ?」
 「…………」
 少年はこたえない。
 少年の目は、深紅の絨毯の上を延々と彷徨っていた。



 セピアが扉の中へ入っていった直後。
 周りに人がいないことを確認してから、扉に耳を寄せる人影があらわれた。
 人影はどこかソワソワしながら、扉の向こうから漏れる声に耳をそばだてている。
 聞き取りにくい声の意味を理解するたびに頷きながら、人影は夢中で聞き入っている。
 「なにしてる?」
 「わっ!!」
 人影のあまりに大きな反応に、声をかけた方も思わず後ずさる。
 後ずさりをしたのは、真っ黒な黒装束に身を包んだ、夜鳥だった。
 「……盗み聞きとは感心しない。しかも、よりにもよってこの部屋……」
 「や、夜鳥〜! さては……つけてたわね!?」
 やたら騒がしい人影は、夜鳥のライバル―
 いや、本人が一方的にライバル視しているだけにも思えるが……真白だ。
 騒ぎ立てる真白を鼻で笑って、夜鳥は冷徹に切り返す。
 「あなたをつけるなんて……ムダの極み。」
 「なーんですってぇ!」
 眉をつり上げた真白が、夜鳥ににじり寄る。夜鳥も退くことをせずむしろ顔を前に出す。
 「真白は取るに足らない人物だ。そういう意味だけど?」
 あくまでも表情を変えずに言い放つ夜鳥を前に、真白の顔が赤くなってくる。
 「あ……あ、あんたになんか! あんたになんかぁ!!」
 怒りでぷるぷる震える腕を持ち上げて、びしっ! っと夜鳥の鼻先に指を指す。
 「ずぇぇぇぇったいに、負けないんだからぁ!!」
 言い放つだけ言い放って、怒り肩のままずんずん歩いていく真白。
 夜鳥は冷たい目で、真白の後ろ姿を見送る。



 かくして、真白の夜鳥に対する宣戦布告は取り交わされた。

 この瞬間から、長い長い、世界を巻き込んだ泥沼の闘いが始まろうとは―

 誰一人として、予想だにできなかった。



eメールでの感想はこちら
掲示板での感想はこちら




折れた刀





オノレガミチヲ