己がみちを
折れた刀
暗闇の中、男の視線が足元に注がれている。 自然な立ち姿とは対照的に、床に倒れる相手を見る瞳は絶えず揺れる。 「勝った……」 その声に答えるように、気配を消して扉脇に立っていた女が道場に足を踏み入れた。 男は面を被った顔を巡らせて、女に声をかける。 「勝ったよ、桃華」 「おめでとう、さすが悠(はるか)クン」 男の前まで来た桃華と呼ばれた女は、暗闇の中で男の面を脱がせる。 面の下に隠れていた悠の顔はほっそりとしていた。下がり眉が優しい彼の人柄を物語っている。 桃華は背を伸ばして悠の目線の高さを同じにする。そして、彼の唇に艶やかな唇を押し当てる。 一瞬驚く悠だが、すぐに頬を赤くして、彼女を優しく抱きしめた。 「やれやれ、お楽しみ中かよ」 二人は突如として現れた気配と発せられた言葉に驚き、抱擁を解いて向き直る。 暗闇の中、悠はその瞳に一人の男を捉えた。背中を丸めて歩く、小柄な青年だ。 「あなた、何者?」 誰よりも先に言葉を発したのは桃華だった。 「お前が勝者か?」 しかし、少年はそれには応えず悠に言葉を投げかける。 悠は状況が掴めないまま、一度静かに頷いた。 「よし、じゃあ、悪いが……」 言葉と共に少年は駆けだす。一直線に、悠へ向かって。 「倒させてもらうぜっ!」 言うや、少年は拳を突き出す。 凄まじい重さを持った一撃は、しかし悠の五十センチ以上手前で止まる。 「君は……丸腰なのか?」 少年の拳による攻撃を見て、悠は竹刀を構えながら問う。 「丸腰? お前、何見てやがる」 鼻で笑う少年を怪訝に思いながら、悠は半歩分にじり寄る。 その分だけ少年は後退する。言葉とは裏腹に少年の動きは冷静だ。 「俺のこれが、見えなかったとは言わせねぇぜっ!」 高々と掲げられる少年の拳を見ても、悠は言葉を返せない。 武器を持たないその身一つの状態を、丸腰というのだ。 拳があるから丸腰でないなどと、竹刀を持った相手に吠える言葉ではない。 「それで、僕をどうしようって言うんだ?」 ひとまず丸腰云々の話は棚上げして、悠は少年に問いかける。 いくら正当防衛と言っても、事情を知らぬまま打ち負かすのは悠には気がひけるのだ。 「お前を倒す! それだけだ!」 会話でのやりとりとは反対に、また半歩にじり寄る悠に対し、下がる少年。 しかし、後退する少年に気後れしている様子はない。 「だから、なんで僕を倒そうなんて考えているんだよ?」 問いを放ちつつ、桃華の気配が消えていることに気づく。 この時悠は、桃華は身の危険を感じてどこかに隠れたのだと考えた。しかしそれは間違いだったのだが。 「は! 決まってんだろそんなこと!」 鼻で笑う少年だが、悠にはさっぱりわからない。桃華のことは頭から追い出して、少年を正面から見据える。 「僕にはわからない。すまないが、できれば教えてくれないか?」 その言葉に、少年があきれたような吐息を漏らすのが悠の耳に届いた。 「お前それでも勝者か? 同じ勝者でも詩宮の野郎とは大違いのへたれだな」 そう言われても、悠には答えようがない。 彼が勝者になったのも、桃華がここで倒して欲しい男がいると言うから従ったまでだ。 にじり寄る悠に、なおも後退を続ける少年。 「教えてくれないのか?」 「ああ、そんなこと教える義理はねぇ。かかって来な!」 その言葉を受けて、悠は一つ息をついた。 そして、一歩を踏み出して竹刀を振りかぶる。 「でやぁぁぁ!」 気合いの籠もった必殺の一撃が、少年の頭部めがけて振り下ろされる。 少年に避ける気配はなく、竹刀は吸い込まれるように頭部に近づく。 そして。 竹刀は完全に振り下ろされ、武器としての役目を終えていた。 中心で真っ二つに折られて、使い物にならなくなっていたのだ。 「……え?」 暗闇の中で悠は一瞬何が起こったのかわからない。そして、その隙を逃す相手ではなかった。 焼くような衝撃が悠の側頭部を襲った。 桃華の手で面が外されていたこともあって、無防備な彼の頭部を護ってくれるものは何もなかった。 彼はその一撃で意識を失い、道場に大きな音を響かせて倒れていった。 一瞬の静寂の後、少年の溜め息が一つ。そして、小さな手が打ち鳴らす拍手の音が続く。 「お見事。なかなかの出来ね」 苦渋を滲ませた表情の桃華と共に現れた少女は、少年に向けて労いの言葉を投げた。 「おい真白、竹刀持ってるなんて聞いてないぜ!」 少女を真白と呼んで非難の声を上げる少年だが、彼女は取り合わない。 「竹刀を蹴りで折るなんてたいしたもんよ。さすがは私の弟子と言ったところかしら」 「しかも、えらくあっけなく倒せたじゃねぇか! どうなってんだまったく」 「今の美鶴が強すぎるのよ」 少年の言葉に、真白はごく当たり前のことを告げるような口調を返した。 それに対して、今まで黙っていた桃華が口火を切る。 「真白、あんた何考えてんのよ! 一度負けた男を神聖な検査の場に乱入させるなんて!」 「あら、検査はもう終了していたんでしょ? 良いじゃない、彼は合格してるんだから」 「ふざけないでよ、こんな簡単にやられるようなダサイ男のご機嫌をこれからも取るなんてまっぴらだわ!」 「……うぅ……」 桃華は床に寝そべっている男の唸り声にも気づかず、さらに声を荒げる。 「だいたい、一度負けて検査に落ちたような丸腰の男に負ける? 信じらんない!」 桃華の言葉は美鶴や真白に対してではなく、悠に向いていた。 そして、怒りの矛先である悠はその強さゆえに、気を取り戻してその言葉を聞いていた。 「もう、せっかく導き手になれると思ってこんな軟弱な男に我慢して媚びてきたのに、何よ!」 「桃華……」 一同の視線が悠に向く。悠はしっかりとした口調で、桃華に問う。 「桃華、僕はこの少年には負けたけど、別に関係ないんだろ? 僕は勝ったんだから、褒めてくれるだろ?」 すがりつくような悠の瞳を、桃華は冷ややかに見下ろす。 そして、決定的な一言を悠に与える。 「負けるような弱いヤツには用はないんだよ、この青二才がっ!」 美鶴に殴られた後が痛々しい顔を涙で濡らして、きびすを返す桃華に追いすがる悠。 「ああ桃華、待ってくれ桃華ぁ」 「おいお前」 よろよろと立ち上がる悠を、引き締まった表情の美鶴が呼び止めた。 「なぜお前を倒したかったか、教えてやろうか?」 それは、勝負の途中で悠が問うたことだった。 美鶴の言葉に、鼻水をすすり上げながらかろうじて頷く悠。 悠の瞳にまだ挫けていない心を見出した美鶴は、満足げに頷いて告げる。 「お前が、強いからだよ!」 その言葉の意味を噛みしめた悠は、唇を振るわせて、しかし、もう涙を流すことはなかった。 「うん、ありがとう!」 力強く感謝の言葉を述べて、折れた竹刀を片手に桃華を追う悠だった。 「あんたにしては、気のきいたことを言ったものね」 「うるせぇ!」 「負けた者の気持ちが、よくわかるから出た言葉かしらね」 「何とでも言いやがれ!」 道場を出て、さらなる戦いの場へと赴く道中。真白の顔が、キッと引き締まる。 「これからが本番よ」 「言われなくてもわかってるぜ」 拳を打ち合わせて前を見据える美鶴の目の先には、一人の男の姿しか映っていなかった。 「今日から君は導き手だ」 真っ赤な絨毯の一室で告げられた一言に、桃華は面食らった。 「で、でも、暁(あかつき)悠は昂坂美鶴に一撃でのされたのですよ?」 その発言に、デスクの椅子に腰掛ける少年、ヴァートは指を一本立てて見せた。 「これは決定事項だ。異論は認めない」 「し、しかし……」 なおも食い下がろうとしない桃華に、人差し指を振ってみせるヴァート。 「暁悠は検査では勝利したんだ。何の問題もない。後は君の鍛え方次第で強くなる素質がある」 異論を唱えようと口を開きかける桃華だが、息を一つはいて肩を下ろす。 「……わかりました」 小さな声ではあるが、桃華は悠と共に頂点を目指すことを決意した。 この後、悠が桃華の本性を知り、泣いて後悔することになるのだが、それはまた別の話。 |